金さんを出したらやっぱりネ ~大岡忠相~
- カテゴリ:日記
- 2010/03/17 04:38:49
大岡 忠相(おおおか ただすけ、1677 - 1752)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩(現・愛知県岡崎市)初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えました
徳川吉宗が進めた享保改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めました 越前守だった事と『大岡政談』や時代劇での名奉行としてのイメージを通じて、大岡越前として知られています
1700石の旗本大岡忠高江戸屋敷での四男(注1)として生まれました
貞享3年(1686年)10歳のとき同族の1920石の旗本大岡忠真の養子となり、忠真の娘と婚約
元禄13年(1700年)、家督と遺領を継ぎ、忠世家3代当主となり、元禄15年(1702年)27歳で書院番 翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務めます
宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)目付に就任し、幕府官僚としてエリートコースを歩みます
正徳2年(1712年)37歳で山田奉行(現・三重県伊勢市)に就任
在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現伊勢市)と松坂(現松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたといいます
当時の紀州藩主で、後に将軍に就任し忠相を抜擢する徳川吉宗は、事実上一方の当事者だったにも関わらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたといいます(同様の説はいくつかあるが、実際には、奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなかった)
山田と松坂との境界を巡る訴訟について、紀州藩との境域問題を解決したのは第18代忠相ではなく第10代桑山丹後守です(注2) (これを忠相の業績としたのは、享保以降、歌舞伎の題材を狙った作り話と言う説が有力)
徳川家継時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮 翌享保2年(1717年)には江戸南町奉行となり、坪内定鑑(中町奉行)の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改めます(大岡越前の誕生です)
吉宗が享保の改革に着手すると、忠相は江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わりました
享保4年(1719年)には本所深川地域を編入(中町奉行所廃止の為)し、奉行所の機構改革も行います
市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」に再編成しました
また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行います これらの政策は一部町名主の反発を招きますが江戸の防火体制は強化されたのでした
享保10年(1725年)には2000石を加増され3920石となります
風俗取締では私娼(今でいうところの援助交際や売春)の禁止、心中や賭博などの取締りを強化しています
享保7年(1722年)目安箱に町医師から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、小石川薬園内に小石川養生所を設置し、また、飢饉対策作物としてサツマイモの栽培を助成しています
現在では、書籍の最終ページに「奥付」が記載されますが、これは出版された書籍の素性を明らかにする目的で享保6年(1721年)に忠相が奥付を付けさせることを義務化したことにより一般化しました
元文元年(1736年)寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務めます
寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理しています 寺社奉行時代にも2000石を加増され5920石となり、足高分を加え1万石の大名格となりました
寛延元年(1748年)奏者番を兼任し、同年には三河国西大平1万石を領し、正式に大名となりました 町奉行から大名となったのは、大岡忠相ただ一人です
寛延4年(1751年)、吉宗が死去。11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、12月(現在の暦では翌年2月)に死去、享年75歳
注1 3男とするものもあるが4男が正しいと思われる
注2 桑山丹後守に依って確定した神領前山境域に対し幕府より朱印状が下付されたと「山田奉行御役所旧記」に記録され、「山田古法式目」にも桑山奉行が紀州藩に申し入れ、解決したと記されている
大岡越前と天一坊のことが書かれてませんが、あれは
なんだったんでしょうね??
メチャクチャ出世街道まっしぐらですよね。
それだけ頭も切れて、行動力・人望もあったということです。
時代劇のヒーローにもってこいですよ♪
この方が今の日本にいたのなら・・・・
何となく思ってしまいました^^;;;;;