Nicotto Town



闇への恐怖を克服する法


暗闇が怖い人、静寂が怖い人。
それは、人間が根源的に持つ怖いという感覚と繋がっている。
でも、全く光の届かない闇も全く音の無い静寂も経験することの方が難しい。

漆黒の闇と呼ばれる光の見いだせない闇に於いても、人間が身を置ける闇とそうでない闇がある。
真の闇にもそうでない闇にも出会って気付く人は少ない。
それは、真の闇に慣れていない故に気付かないからである。


最初は、明かりを蝋燭やアロマランプ程度の灯りにしてそこに身を置くことから始める。
自然の音以外を消して静けさの中に身を置く。
その明るさに繰り返しなれ、静けさにあって部屋の中と外から聴こえる音を聴くことになれる。
そうすると、暗黒と静寂とは程遠い事に気付く。


次に、灯りは消す。
喧噪とは無縁な、トランスの音も電灯線の音も人工的な音の無い場所に身を置く。
それでも静寂や光のない闇とは程遠い世界。
自分の音を聴き、自然の音を聴き、地上に漏れる光を感じる。
心を波一つない落ち着きに置く。


音の届かない場所へ行き、一切の光を遮る場所に身を置く。
そこで初めて闇に出会う。
それでも静寂には程遠く、自らの音を聴き空間の音が聴こえる。
そこで、心を波一つない落ち着きに身を任せる。


その中で身を置くうちに、真の闇を感じることが出来るようになる。
それは、危険な闇と身を置ける闇の違いを知ることでもある。
よほど心が強くない限り、危険な闇に近づくことも見つめることもすべきではない。
そしてできるだけ遠ざかることだ。


危険な闇には稠密な密度があり、危険でない闇には希薄な空間があるだけだ。
それは、見えるものでも触れることのできる者でも聴くことのできるものでもない。
だが、磨かれた感性によって視た瞬間感じることが可能となる。
在るときそれを感じたことがある人は、押さなければ幼いほど潜在意識でその怖さと繋がる。

それは時として、単なる暗さへの恐怖や怖さとは大きな隔たりのある畏怖として心を捉える。


暗さや静けさに不安以上の恐怖を覚える人は、是非試みて欲しい。
日常の場所に在る以上、真の闇も真の静寂もあなたを襲うことはない。
あなたの周りには少なくともあなた自身の音と、静けさの音があり、地上に漏れ出る光がある。
そして恐怖を打ち払う強い念を発する意志と心を鍛えれば、心に掬う闇の陰は打ち払われる。


先ずは、自分をしっかりと持つこと。
それは、自身を知ること、そしてそれをあるがままに受け入れること。
自身を知るには、自己洞察と自己観察を怠らない。
そして自身を無暗に疑わないで、信じ抜くこと。

それが少しずつできるようになったら、同じことを他人にする。
他者をあるがままに受け入れ、他者を信じる術を得るために。

自分が死を迎えるときにどう在りたいかを真剣に考えておくことは、どう生きるか腹を括る糧になる。
自身の生き方を照らす羅針盤の役目を果たす。

死と向き合うことは、死を覚悟することや死後の在り方を問うこととは違う。
自分が今と死の間に在る人生をどう生きるかの覚悟をすること。

”死んでなどいられない”という強い心が生まれたとき、死への恐怖は払しょくできる。
その代わり、死ぬ時に悔い残すことなきよう願う心が生き急がせることにも繋がる。

一番難しいのは、生き急がずに生きる覚悟を持ち続けることかな。

#日記広場:人生

アバター
2010/03/20 22:55
「自分持てるかな?」って思っちゃいけないんだよね^^;>

思わない為に、自分に対する観察と洞察をし続けるんですよ。
そうやって自分を知る努力に励む。
周囲の人や全くなじみの薄い人や他人に対しても観察と洞察をするように心がけ実行するんです。

そうやってるうちに、それが習性のようになります。
で、自分も含めて良くも悪くもそういう人なんだとその人の人格を受け入れちゃうことです。
そうすると、人を嫌いになることが難しくなりますよ。
細かなことで腹も立たなくなります。
自分と他者の違いも良い意味で認められるようになります。

気がつけば、自分を知ってる自分がそこにいるようになります。
そのころには、”人”に限らず物事を受け入れる心が育っています。
それから、自分が死ぬ時にはどういう状態で死を迎えたいのか考えられるようになります。
さすれば、自ずとその為にどう生きるのかも考えられる自分が生まれます。

あとは、生き急がないように心掛けながら、ケ・セラセラと楽天的に・・・。
私はこう生きようという生き方に沿って、生活するわけです。
多少の失敗や諦めは、”まあいいか”と受け流しながら。

死んだら、思い出は自分の中から消えてしまう。
大切な物の記憶も消えてしまいます。
意識は、残らなくなるでしょう。
だから、人は生きた証をどこかにマーキングしたいと思うのでしょう。

凡庸に生きた場合、子供自体がその証です。

アバター
2010/03/20 17:47
有り難う・・・。
最近は、理由も判らないまま、漠然と気分が落ち込んでいました。

死よりも生きる方が怖いと感じてしまっていたんで、死に逃げたくなりますね。
(別に自殺願望があるわけではありません;「早く寿命が来ないかな」とか「早く時が経たないかな」と願ってしまう訳で・・・。)

うん、またこの気分は私を襲うだろうけども・・・^^;

「自分持てるかな?」って思っちゃいけないんだよね^^;
でも、時たま、なんで「こういう世界があるんだろうってね」思う事ありますよ。^^;



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