三国志演義のウソ? ホント?3 お知らせ付
- カテゴリ:日記
- 2010/06/20 16:10:15
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え~、ロマンをあまり壊して欲しくない。との意見もあるようなので、今回と次回くらいで一応お終いにしようかと思ってます
Q 曹操は大喬・小喬目当てで赤壁の戦いを仕掛けた?
A まったくのデタラメ「橋」と「喬」を引っかけた作り話
解説 曹操の降伏勧告に迷う孫権 降伏を主張する周瑜
この時、孔明は「曹操の目的は二人の美女である」と説き、曹操の子、曹植の作った「銅雀台の賦」(注1コメント欄)を諳んじて見せた
その二人こそが「喬の二名花」大喬・小喬である もちろん、周瑜の愛妻家ブリを承知で持ちかけた孔明の策なのだが、孫権と周瑜は激怒
「数多くいる美女の中のたった二人、惜しむ事も無いでしょう」とたたみかける
周瑜は怒りに震えながら「大喬とは先君孫策の未亡人であり、小喬とはわたしの妻の事だ おのれ、曹操 許さん!」と、曹操との決戦(赤壁の戦い)を決意する
演義ではこうして赤壁の戦いの火ぶたが切って落とされるのだが、これは全くの作り話であり、周瑜が降伏を主張したのもウソ
史実では迷う孫権、ほとんどの武将が降伏を主張したが、周瑜と魯粛の二人だけが強く開戦を主張した と、なっている
Q 東南の風は孔明が祈祷して吹かせた?
A ウソ 孔明の神謀ぶりを誇張した作り話で東南の風が吹いた史実すら無い
解説 赤壁で対峙する周瑜と曹操 しかし、周瑜は攻めあぐねていた
作戦は決まっていた「火攻め」である(注2) しかし、北西の風では敵に火を放っても自軍にまで被害が及ぶ
そこで孔明が、「祈祷により、東南の風を吹かせて見せましょう」と申しで、三日三晩の祈祷を行いついに東南の風が吹いた
演義での見せ場の一つであるが、作り話で東南の風が吹いたと言う史実すら無い(次のQも参照の事)
故・横山光輝氏のマンガ「三国志」では、孔明は東南の風が吹く事を知っており、それは「貿易風」であった。と紹介されているが真偽のほどは定かではない
Q 赤壁の戦い 曹操は大敗北したのか?
A 敗北したのは事実だが局地的な敗北のみ
解説 赤壁の戦いにおいて「火攻め」が行われた事は「演義」のみならず「正史」にも記述があり、ほぼ史実と思われる
が、演義や映画などで語られているほどの大敗北であったのか? と、言うと、どうやらそうでもないらしい 正史で曹操は孫権に対し「陣中に疫病が蔓延したため、船を焼いて撤退する」旨の「休戦」の書簡を届けており、その中で「疫病で撤退するが周瑜が戦いで活躍したように見えてしまった」としており、孫権もそれを認めている記述がある
つまり、撤退後に船を奪われないように自ら火を放った と、言うのだ
負け惜しみの言い訳のようにも聞こえるが、曹操の陣営に疫病が発生していたのは正史にも記されている事実(次のQも参照)であり、今では「疫病撤退説」の方が有力である(注3)
Q 連環の計は龐統の策?
A 龐統が赤壁の戦いに関与した史実はどこにもない
解説 南征してきた曹操の陣営を龐統が訪れる
『伏竜か鳳皺か、いずれかを得れば天下も取れる』と、司馬徽に言わしめた賢者の一人、伏竜は孔明のことであり、鳳皺が龐統の事である
予期せぬ賢者の訪問に曹操は感激して陣中を視察させ「何か欠点は無いか?」と尋ねる 「完璧です」と答えながら、ただ一点、陣中に病人が続出していることを指摘する
水が変わり、慣れない船上生活の為だと指摘して、船と船を鎖でつなぎ、板を渡すことで船の揺れを抑え、陸上と同じ生活ができるようにする事を献策した
これが『連環の計』で、火攻めの際に船が離散して逃げられないようにするためのものであるが龐統が呉の陣営に所属しているのを知らなかった曹操はこの罠にはまった
後は「苦肉の策」(注4)で偽りの投降をした黄蓋(こうがい)が曹操の陣に火を放つだけとなった
作戦は見事に成功し、東南の風に乗って曹操の船団は焼きつくされる
演義一番の見せ場「赤壁の戦い」である
この連環の計は演義・正史共に記述があり、史実とされているが、その策を曹操に伝えたのは龐統であるとの記述は演技のみで、正史には龐統が赤壁の戦いに参戦・関与したとの記述は一切ないので『連環の計』は曹操の発案であるとする見方が正しいと思われる
龐統は蜀の軍師となり、劉備の西蜀進攻の際活躍している 遅れて登場した分 華々しいデビューが必要とされてこのように作られたというのが歴史研究家の定説となっている
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詳しい応募方法等は次回ブログにて発表 お楽しみに(1名様)
投稿す場所を間違えてるよ^^
副業になるかもよ^^v
最近はまってるのは・・・北方謙三(字が違ったり、作者違いならごめんなさい)楊家伝です。
史実と違うけど・・・最近のお気に入りw 岳飛伝は岳飛がまじめすぎて・・・
「銅雀台を中央に、左右に金鳳と玉龍の高台を築いて2つの橋で結べば素晴らしい眺めになる事でしょう」と謡われたもので、この「二つの橋」が「二喬」の出どころである 「橋」と「喬」が同じ「きょう」であり、曹操が女好きであったことから演義において書き換えられたものである
注2 演義において火攻めは孔明と周瑜の発案によるもの と、されているが実際には黄蓋の提案である「呉書・周瑜伝」の中に、黄蓋が「今は多勢に無勢、守る事すら難しいが曹操は船と船を鎖でつないでいるので火をかければ勝てる」と周瑜に進言して同時に「苦肉の策」も進言して周瑜に採用された と、ある「苦肉の策」も周瑜の発案ではなく、黄蓋のものだったのだ
注3 現在では曹操軍に蔓延した「疫病」とは「吸血虫病」であるとする説が最も有力でこれは血流によって腸や肝臓に運ばれる虫(寄生虫)によるものとされている
注4 苦肉の策(苦肉の計とも)と、言えば、現代では苦し紛れの策と、悪い意味でつかわれるが、実際は「兵法三十六計」の一つ(第三十四計)にも記されている「わが身を犠牲にしてでも敵方の信頼を得る」計であり、史実上最初にこの計を実践したのは黄蓋である
演義では、最初曹操は黄蓋の投降を苦肉の計と見抜くが闞沢(かんたく)の話術とスパイからの密書で最終的に信用する 黄蓋は自らの船に火を放ち、曹操軍に突撃。曹操軍を焼き払う
ウソのような展開だか、これは「呉書・周瑜伝」にも黄蓋が火攻めを提案してから偽りの投降をするまでが事細かに記されており、正史の中にも記述がある事から真実であるとされている(正史の注訳には黄蓋が曹操に送ったとされる書面まで掲載されている)