三国志演義のウソ? ホント?(終)
- カテゴリ:日記
- 2010/06/29 08:05:24
え〰(一応)最終回と言う事で……
Q 関羽は曹操に降伏する際に3つの条件を出した?
A そのような史実は無い
解説 演義では戦いに敗れた関羽は討ち死にを覚悟するが、曹操は関羽を帰順させるため張遼(ちょうりょう)を派遣して説得させている
張遼は、ここで討ち死にすれば
①「桃園の義」に背くことになる
②劉備夫人を路頭に迷わせる事になる
③漢室の為に忠義を尽くせなくなる
と、3つの罪をあげて関羽を説得する
関羽は心動かされるが逆に3つの条件を出した
①曹操に降伏するのではなく、漢王朝に降伏する
②劉備夫人に俸禄を出す
③劉備の所在が分かり次第曹操の元を去る事を認める
結局、曹操はこの条件を飲み、関羽は曹操の客将として迎えられる
関羽が1時期曹操に降った事は「正史」にもはっきりと記述されており事実である
しかし、張遼が説得にあたった事や関羽が出した条件の事はどこにも記述が無い
関羽を義の人とすべく、不名誉な投降の事実に3つの条件の話をつけ足したものと思われる
Q 関羽は千里行をして劉備と再会した?
A まったくの作り話である
解説 演義では曹操に敗れた関羽は劉備夫人を守るために曹操の捕虜となる
関羽を高く評価していた曹操は彼を大変厚遇し、関羽もその恩に報いるために数々の武勲を立てる
が、主君劉備が袁紹の元にあると知った関羽は曹操の元を去り千里の道を走破して劉備との再会を果たす
この時、関羽は通行証を持っていなかったため、5つの関所を突破し、6人の将を切った(関羽 五関に六将を切る) 演義の見せ場の一つである
もし、これが事実ならば関羽は西北に洛陽を目指し、そこから東に転進 汜水関(しすいかん)・榮陽(けいよう)・黄河の渡しへ向かい、そこから南下したことになり、まったく、無意味で不可解な遠回りをした事になる
正史では関羽が曹操の元を去ったのは事実だが、曹操もそれを認めており直接汝南(じょなん)へ向かった物で関羽の忠義・武勇を誇張したまったくの作り話である
Q 関羽を見殺しにした劉封は劉備に誅殺された?
A 劉封の処刑は関羽とは無関係
解説 劉封は武芸に秀でていたため、子供が生まれる前に劉備の養子となった人物である
演義では荊州を守っていた関羽は魏と呉の挟撃に合い孤立してしまう
関羽は再三、劉封と孟達に援軍を要請するも二人はこれを拒否
「占領したばかりの土地を動揺させられない」と言う、まことに身勝手な理由であった
結局関羽は殺され、孟達は魏に寝返ったが、劉封はこれを拒否し最後まで魏と戦うも破れて蜀に逃げ帰る
しかし、関羽を失った劉備の逆鱗に触れ処刑された その直後、劉封が最後まで蜀に忠誠を尽くして戦った事を知り大いに悔んだ と、なっている
が、正史では劉備の怒りは激しく、劉封を責めた事は事実であるが、魏に降伏せず戦った事は知っており、処刑までは考えていなかった
しかし、劉封の優秀さを知っていた孔明は、劉備の死後、劉備の実子劉禅が王位継承の際に必ずや障害となり、劉封派と劉禅派に国が分かれて争う事を危惧し、劉備に進言して劉封を処刑させた となっている
この話は劉備と関羽の絆の強さを誇張するうえで誠に都合がよく、処刑後に劉封の心を知り悔んだ と言う事で劉封の名誉も守ったと言う所である
Q 死せる孔明、生ける仲達を走らす ホント?
A 司馬懿を貶め、孔明を神格化する悪意に満ちた(?)作り話
解説 五丈原で孔明と司馬懿は対峙するが、孔明は志半ばで陣中において病死する
蜀軍の撤退を察知した司馬懿は追撃を開始するが、蜀の大将数十名が護衛する戦車には死んだはずの孔明が座っていた
魏軍は大慌てで逃げ出した
これが「死せる孔明 生ける仲達を走らす」の故事である
面白い話ではあるが、これまたまったくの作り話
正史によれば孔明は死後司馬懿(仲達)の追撃を許さないように万全の策を練った
姜維(きょうい)・楊儀(ようぎ)は孔明の指示通り喪を発せず撤退を開始、司馬懿が追撃すると軍勢を引き返し戦うそぶりを見せた
これを孔明の策略と思った司馬懿は、それ以上追撃することをせず、蜀軍は無事に蜀に帰った と、なっている
孔明の木像に驚き慌てふためいて逃げた などと言うものは司馬懿をおとしめ、孔明の知略を誇張する悪意に満ちた創作に他ならないのである
この本に書かれている事をすべて紹介したらPart20位まで行きそうですが、ひとまずここまで
読んでくれてありがとうございました
何度も言っていますが、ここに書かれたものはあくまでも「正史」と「演義」の矛盾点についてであります
「正史(歴史書)だからと言って史実のみ書かれているのか?」と言えば必ずしもそうではなく、魏にとって都合の悪い部分はオブラートにくるんだり、あいまいな表現になっている所も数多く見られます
歴史は勝者によって都合よく作り変えられるものなので、後世の歴史研究者たちはいろいろな文献を照らし合わせ、「より真実に近いもの」を探すわけです(だから歴史は面白い)
わたしたち日本人に最も関連が深いものと言えば、第2次世界大戦の発端となった「真珠湾奇襲攻撃」の宣戦布告の遅れではないでしょうか?
当初、宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に通達すべきが、タイプの遅れその他の理由で結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまい、その為に、「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われることとなりました
しかし、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は、完全に宣戦布告が行なわれなかったにも関わらず、このように喧伝されることはありませんでした
我が国 「日本」 が、卑怯な行いは末代までの恥であるとする「武士道の国」であればこそ、アメリカの正当性(戦意高揚)と、日本人に精神的なダメージを与えるためにそのように発表されたのではないかと、へそ曲がりメルちゃんは思ったりするのです
ちなみに、宣戦布告が攻撃直前に行われた場合も同じように国際条約の違反になりますが、アメリカは第二次世界大戦後に参戦した殆どの戦争(ベトナム戦争、パナマ侵攻、イラク戦争など)において正式な宣戦布告をいっさい行ってはいません
攻撃開始から1時間後に正式な宣戦布告をした「日本」と、正式な宣戦布告なしに攻撃を開始した「アメリカ」のどちらが「卑怯」であるかは呼んでいる皆さんの判断に任せます
PS 史実を書いただけで、この事によって「アメリカ」は「卑怯者」だと言うつもりも、「大国のエゴの塊」と言うつもりもありません
ええ、ありませんとも(笑)
詳しくは「真珠湾攻撃 - Wikipedia」参照
興味深くそして楽しみながら読ませて貰いました。
有難うございます(^^
好き嫌いではないだろうけどね^^:
続きを楽しみにしてます
(^人^)感謝♪
史実も脚色が必要ですね
楽しく読ませてもらいました
またいつか、続きを楽しみにしてますね
ぼくは、何があろうとも、三国志の中では呂布奉先が好きだな~
それだけに、詮索はする事はない様にしたいと思います。
自己弁護をするのが歴史書ですから、やっていることは昔も今も変わらなくて、
イラク戦でアメリカ軍が行った情報操作も同じようなことですよね。
それだけ面白くしたかったのでしょうね。