貧乏って何だろう
- カテゴリ:日記
- 2010/07/24 05:04:49
幼いころ住んだ家は、
国道202号線沿いに建つ二階建ての、小さな小さな借家で、
トラックが通れば家の柱は、ガタピシと、どこというでもなく鳴いた。
東京から母と私を連れて故郷に戻った父は、
ここで商売を始めたのだが、
2歳の誕生日をようやく迎えたころの私は、
屋根にもぼり、看板をかける父の姿を、今でも思い出す。
まだまだ貧乏だったろう。
福岡の街中には珍しく、大雪が降った日、
母は「すべるから」と、はだしで5件隣の家まで、
ヤカンをもって水を貰いにいった。
水道管が凍り付いて、水が出なくなったのだ。
私は母が、マフラーを「マチコ巻き」にして、とぼとぼと歩く背中を
二階の窓から、それこそ私もマフラーをグルグル巻きにして、
なんとも心細い思いで、見つめていた。
戻る母の姿は、覚えていない。
貧乏のどん底だったよ、と父も母も、そのころを思い出せばそういうが、
私のサンタは、目を覚ませばプレゼントに埋もれているほどのサンタだったし、
誕生日には、私の好きなものばかりが
ちゃぶ台の上に並んだ。王様の食卓のようだった。
パパとママは、これが好きなんだ。
と、タカナ炒めばかりを食べている姿を、
私は「ほんとにパパとママは高菜が好きなんだなぁ」
と思い込んでいたが、実は高菜しか食べれなかったんだ。
私は、ハンバーグを食べ、オムレツを食べ、エビフライを食べていた。
「きーちゃん、パパ、エビフライの尻尾がすきなんだ。
おくれよ。」
その言葉も真に受けて、「パパは、尻尾がすきなんだ」
ずいぶん大きくなるまで、「はい、パパ、尻尾!」
と、さも良いことでもしているように、父の前に、尻尾ばかりを並べた。
「ありがとう、きーちゃん。パパこれ大好きだ。」
病弱だった私の寝ている枕元に、
ある日青い鳥が飛んできた。
慣れている様子で、その青い鳥はとまり、
私は声を立てずに、父か母がきて、捕まえてくれるのを待った。
その日を境に、と父は言う。
商売にツキが味方し始めて
あれよあれよと、うちはお金持ちになったらしい。
でも、私には何一つ代わらない生活で、
引っ越すつどに家が大きくなっていくのは、
私が大きくなったからなのだろう、などと思っていた。
その青い鳥も、三回目の引越しで死んで
父も母も「ありがとう。。。」といって涙した。
いつごろだったろう。
父のお皿から、エビフライを取り上げて
私の分とあわせて、尻尾をお皿に戻してあげていると
「きーちゃんっ!パパは尻尾だけが好きなんじゃないんだぞ!」
あれれ?そうなの?
私はそこで始めて父が、
本当はエビフライの本体が好きなのだ、という事を知った。
もう、私も大学に通っていたころだった。
よくもまぁ、それまで我慢して尻尾ばかり食べていたものだ。
それから程なくして
3歳と赤ちゃんのチビ2人が、我が家にやってきた。
家族になったんだ。
「大好き」の定番なんだろうか。
チビ達もエビフライが好きで、
あっという間に自分のお皿の分を平らげると
パパの分のお皿を狙う。
「二人でお食べ、尻尾は返してくれよ、パパは尻尾が好きなんだ。」
それからというものチビ達は、「パパはエビの身は嫌いなんだ」と思い込み
父が海老天うどんを注文しても
「きゃ!パパがエビ嫌いなのに!」
正義の味方のようにエビの身を食べ、
尻尾を「はいどうぞ」と、うどんの中に返した。
遠足のお弁当の中のエビフライの尻尾を
「はい、パパ、おみやげよ。」
きれいにきちんと残した尻尾を、得意げに差し出したりもしていた。
彼女らが、高校中学になったころだったろうか。
いつものように、「はい、尻尾よ」と差し出す彼女らに
「死ぬ前に、腹いっぱい身が食いてぇよっ!」
と父は言い出し、「ええ?!!!」
彼女らは初めて「パパは身も食べれるんだ」と気がついた。
でも、彼女らは
「食べれるけど、尻尾のほうが好きな人」と、今でも思い込んでいるから
父のお皿には、チビ二人分と、便乗した母の分の尻尾が
小山のように積まれるのだ。
父は、いまだに尻尾ばかり食べている。
いやいや、自分に都合のいいように、人間できてるもんだ。
しかもお嬢をお持ちだwww
お肉というと、マトンが出てきてたなぁ、うち(笑
いまでもマトン好きだ。
マトンはうまいなぁ。。。と父が言うので、そうだなぁ。。。幸せだなぁと(爆
捕鯨うんたらの前は、鯨ばかり。。。実に鯨はうまいなぁと(爆
そうなんですよね、希望。。。これなんですよね。
出口がないってのは、これ死ねってことですわ。
商売でもいい、子供の成長でもいい、なんでもいいから、希望。。。
貧乏な人が、ちょっとお金持つじゃない?
糖尿になるほど太る、ありゃなんかみっともないなぁ(笑
借家住まいの頃に生まれて、ちょうど物心つくころには一戸建てに住んではいたけど
家のローン、同居の両親のお小遣いまで含めて6人家族を養うのに
父一人の稼ぎでは、本当に大変だっただろうなぁ・・・・
安くて薄いお肉で作った豚カツを
少し暮らし向きが良い従兄弟に
「お肉のフライ?」
って聞かれるまでは、普通だと思ってたしねw
お金が無くても希望があり、心楽しければ、貧しくはない。
愛するものの笑顔があれば、我慢もみじめじゃない。
貧乏も不幸も、そう思う心から生まれてくるんだと思う。
あたしね、あの「作文兄弟」の話が大好きなの。
お母さんがね、たしか学がない人だったの。
貧しくてね、たしかボロ屋さんだったのよ。
でもね、そのお母さんが、学校から帰ってきた子供たちに、「母ちゃんに今日あったこと、教えてくれ」
と、毎日せがむの。「かあちゃんは、学校に行けなかったから、教えてくれ」って。。。
それで、その子は、東大に行くのよ。。。あれ?これは東大に行った子の話だ。。。
ああ、作文兄弟は、家が貧しいから、兄弟でバンバン作文書いて、コンテストに出して
賞品、賞金、山のように取り続けるの。
掘っ立て小屋の中に、そりゃもう、ありとあらゆるものが、所狭しと置かれてるの、全部賞品。。。
なかなか痛快でしょ!
本当に貧乏って何だろう。イコール不幸じゃないんですね。
あ〜それってのは、多分「食べる」ことをクリアした後の話だから、納得出来ないんだよ。
ほら、昔の貧乏はさ、「食えますか?飢えますか?」の瀬戸際なもんで、
そのお隣さんはさ、そのワケが学習塾だったりローンだったり。。。
その結果の「着回し」だから、なんとなく美しく見えない。
「あ〜あ、がんばっとらすですね!」の範疇だもの。
ワタシも揶揄しちゃいそうだ。
ってか、15年体型が変わってない、ここは評価に値するっす><
死んだ友達が居るのね。
その友達は、いまでも若い姿のママで、ワタシに話しかけてくる、当然頭の中でだけど。
きっとね、「その歳」をワタシが追い越しても、やっぱり父は父のままで、母は母のママで
ワタシのなかで呵ったり教えたりなんだと思う。
だからさ、オゴリ昂った態度なんかさ、難しいよねぇ。
・ホワイトジーンズになんの変哲もない白いTシャツを合わせる
・白のサマーセーターに白のワンボックスのロングスカートを合わせる
・冬場は上記のいずれかに紺のブレザーをはおる
この3点のみでもう15年以上着回しをされてます。 ご主人は某有名高の教頭先生だけど、大きな邸宅のローンは確かに負担だと思うし、3人いるお子様たちは放課後の殆どを学習塾や習い事に費やし・・・
湯水のようにお給料は流れてるんだろうなーと 傍目にも思うのですが・・・。
母親って こうあるべきなのかな?って 彼女を見るにつけいろいろと思うのです。
親にならなければ、気付かない、分からないこともw
どこまで年を重ねても、親の死んだ年になっても、きっと追いつけないんだろうな~
なんて思いますw^^;
アタシも好きさ♡
いやいや、うちもかわらん。
豊かになっても、エビがそうだっただけで、
ワタシとそっくりな父は、考え事をすると、ほんとに他のことが考えられない人で、
目の前の物を、無意識に食べてしまう。
ワタシのおやつが、忽然と姿をなくしてることだって、そりゃもうあった。
「あんた、たべたねっっ!」
そう責めると、「うんにゃ、食べてない」という。
「口の回りに、粉が付いてるよっっ!」
「嘘言うなぃ!」
「鏡、みてみろっ!」
「あれ〜、なんでだろう。。。」
とまぁ、こんな感じだ。
エビの頃は、どん底の貧乏だったんだろうねwww
余談だけど、父の書斎から古い五線紙が出て来たことがあった。
なんだこれ?と訊くと
「作曲しようと思ったんだ」という。
は?いつだ?
「貧乏の上にヒマだった頃だよ」
あんた音符も読めないじゃん。
「金儲け出来るかなって思ったんだよ、巨額の富だ。」
大笑いしたよ。ほんと、アタシはヤツにそっくりだ。
母ってスゴいね。
昔を思うと、みんな押し並べて貧乏だったのかもしれないね。
でも、暖かかった。。。家だったね、間違いなく家だった。
泣くなぁ。。。
母はね、それでも幸せだったんだよ。
伊達男のお父様のことを、わからずに結婚したと思う?
絶対にご存知だったさ。
同じワンピースでも、コザッパリしてらしたでしょ?清潔だったでしょ?
ウチの母も同じようなもんだったよ。
ほら、商売してるとね、父はそれ相応のカッコウをしなくっちゃいけない。
ある程度になってから、母が「スーツもワイシャツも仕立」って決めていたから
ウチの父はいつでもチャーチルや児玉清のように、伊達男だった。
持ち物も、そりゃステキだった。
女の子ばかりの家だからってこともあるけど、「わぁ。。。パパはステキだ」と思ってた。
でも、母は、こざっぱりはしてるけど、長い間同じ洋服ばかりだったよ。
子供達をワタシに与えてくれた人、そしていつも飛び回ってる人、お母様はそうお父様を思っていたかもしれないねぇ。。。離婚を考えなかったわけではないかもしれない、長い間にはいろいろあるもの。
ぷっちょんちのこと、ほんとよくわからない、しらない。
でもね、子供が思うほど、母親は不幸ではないんだ。
それは確信するんだ。
そしてね、子供が思うほど、父は奥さんを思ってなかったわけじゃないんだ。
男は成長度が低いから、どうもちゃんと表せない。
でもね、感謝は年老いてしまってから、やっと滲み出るんだよ。。。そう思う。
願わくは、長生きして欲しかったね。。。
大きな荷物でも、父は母が持ってることに気が付かない人で、「この伊達男!持って頂戴!」
それで始めて気が付く人。
でもいまね、母の荷物を父が持ち、坂道に手を差し伸べるんだ。
ぷっちょが涙を流さなくてすむ最後の収支が、そこにあったのにね。
それが、残念でならないよ。。。それを見て、始めて子供は過去を知るのにね。。。
チビ達にいいジジイならば、それは年月が与えたの償いの時間だ。
母にそれが出来る機会を与えてもらえなかったことが、父がしてしまったことの大きさだね。
残念だ。。
でも、そんなに不幸ではなかった、ワタシね、知らないけどね、そう思えるよ。
あたしね、「塩鮭は、塩鮭のまま、大海を泳いでる、そういう種類だ」ってのを
すっかり信用してたんだ。
パパがね、そう言ったの。からかったの。
「浸透圧をもの凄くウケる魚で、元々塩分を過多に含む種類だけど、海に出ることで更に塩気を増す」とね。。。すっかり信じてたよ。
浸透圧を知ってるなら、もう少し考えろよワタシっ!
で、どうしても魚そのものが苦手になっちゃうのね。
でもね、魚卵だけは子どものころから大好き。
子持ち鰈の煮付けが出るとね、卵のところだけ食べて、残りをお皿ごと母に戻してたの。
そのうち、最初から人数分は煮付けなくて、母は私が卵だけを乱雑の食べた残りを食べてたのね。
いいよ、ママは卵より身の方が好きだからって……
でもさ、よく考えたら、母だって魚卵好きのハズ。
母の実家に行くと、いつも祖母が母のためにって筋子を用意してたんだもん。
今さらながらに、母に申し訳なかったと思ってます。
ちなみに我が父にはKINACOパパのようなすてきな行動はとれません。
たとえば、4人の食卓に3本の海老フライしか無かったら、躊躇なく2本はしっぽまであっという間に食べる人です(爆)。
ええ、私はそんなところも父によく似てると最近思いますw
私が幼い頃、母は一年中同じワンピース着てたのに
父は真っ赤なスポーツカーなんかとっかえひっかえ乗り回してたんだ。
すき焼の貴重なお肉を兄と奪い合って食べていた。
お肉は無くても平気な私が"可愛そうに"と思い自分の分を兄にあげた。
母が亡くなった時、なんで父じゃないんだ!!
と生きている父が恨めしかった。
でも父親なんだよね…
子供達のいいおじいちゃんなんだ。
居てくれてありがとう…なんだろな……
それにしても、きなこさんは素直な子だったんですね^^ ほほえましいです
ありがとうです。
今日ね、alohaさんを思い出した。
あのね、私の山の家はね、三瀬ってとこにあるんです。
なんだろうなぁ。。。なんで思い出したかってとね、道端にね、セリが生えてたからだ。
きっと、喜ぶなぁって。
でもさ、いつの間にか、金銭感覚がね、違う意味で変わって来たやろ?
サラリーマンや公務員家族と。。。商売人の子は商売人の子の、金銭感覚になって行く。
なんでこんなに小さくまとまってんの?とか、思った事ない?他の家に。。。
すぐ「きーちゃんちはお金持ちだからうんぬんかんぬん」とか言ってみたり。
そういうセコい感じがさ、不愉快だったなぁ。。。
両親にね、そのことを言うとね、
「リスク負ってるんだもん、商売人は。。。いつコジキになるかわかんないんだよ。
会社員がいきなりコジキにはならないだろ?
そんなリスク負ってんだから、すこしは贅沢出来ないとね、意味がないよね。」
そういわれて納得した。
そっかぁ。。お父さんそうだったんだ。なんか前に少しだけ聞いたよね。
父はね、自分の家族と娘が出来たことが、嬉しくてたまらない人だったの。
私が生まれて「お義母さんありがとう、神様ありがとう、世界中ありがとう」って
母方のお母さんに電報打った人なの。
幼少期がね、ちょっと悲惨だったんだよ。だからなんだ。
父だって、普通の家に生まれていたら、我が儘が前面に出たかもしれない。
男の人って、大体ガマン出来ないもん。
全米と「アタシ」っすか?あはははは、ありがとう!
いつか「同じ誤解をしていたきーちゃんが、チビ達に言ってくれるはず!」と思ってたらしいが
言うもんか、こんな面白いこと(笑
この後ね、玄関先での「女の子会議」で、チビ達は
「ビックリしたねぇ。。。パパは身が食べれるんだねぇ。。。」
「でも、きっと好きじゃないんだよ。好きじゃないけど、言いたくなったんだろうねぇ。
年取ったんだね、食べ物に執着が出て来たねぇ」
と、都合よく誤解していたので、それもそのままにしておいた。
うん、なれるさ!
愛情を受けて育った子は、かならず人に向けれるさ。
私ね、かぶとむしさんが、おとうさん、おかあさんのことを話すのが好き。
頑張るお父さんと、家を守るお母さん。。。
幸せな家の話だもの。
娘は、そのお父さんとお母さんを「大好き」って言うんだよ、なんだか嬉しくなる。。。
ああ。。。女の人って悲しいですね。。。一人で生きていけない、経済的にも精神的にも。。。
これって悲しいです。。。
将来のその姿がイヤで、「自分で食おう」って思ってました。
打算で結婚はしない、ガマンもしない、そう思ってました。
父とね、生立ちが少しだけ似ています。
おばあちゃんの愛情を受けて、父はグレずにすみました。
孤立無援は、おばあちゃんが死んでから始まったんですもの。
ああ、ごく最近にね、ヒロさんと多分同じほどのお年の人から
生立ちを聞いたの。。。ああ、今日書こう。。。
今日もコロッケ、明日もコロッケ。。。父がね、母がコロッケを作る傍らで
それ歌ってた。
その日は皆でそのコロッケを食べて、
次の日にはもう、コロッケは当然ないんです、私の分しか。
父がふと、「今日もコロッケ、明日もコロッケ。。。いいじゃんかぁ」って。
今考えたら「そうだろうなぁ」って思います(笑
同じですね。
父がよく歌ってたのでね、「負けてたまるか」もあったなぁ。。。
毎日毎日、戦後に食べたサツマイモとカボチャは見るのもイヤなくせに
なんでコロッケは、みんな好きなんでしょうwww
www
なんで私が悲壮感がないかって、多分ここなんですよ。
むちゃくちゃな様で、父はどっかしらこんな人です。
私の反抗期ががヒドかった、積み木崩しだったと、世間知らずな母は言うけれど(爆
それでもいつでも父と仲良しでした。
うん、飢えさせちゃいけない。。
オナカもココロも。。。
皆で豊にかぁ。。。そう思って、ソ連だって中国だって建国したのにね。
人間ってのは、ほんと難しい。。。
そうそう、熊本ってね、向上心が無い土地なの。
みんなで押し並べて。。。ってのに幸福感を覚える土地柄。。。
向上心がないってか、上昇志向が弱いってか。。。これね、なかなか心地よいのだ(爆
でもね、やっぱり少しお金ないとね、人間なんか弱いから
なんて言ったら良いんかな。。。荒むんだ。
父も母も、若かったし私が居たからね、希望があったんだよ。
希望があるとね、人は生きていける、乗り越えていける。
この青い鳥ね、インコだったんだわ。
手乗りインコが逃げ出したんだろうね。。。慣れてたよ。
うん、楽しいことばかり思い出すよ。
親が言う「悲惨な反抗期」もね、今思っても面白いんだ。
氷点下の借家っっ!
うん、そんなもんだ、うちも。。。家の中なのに、雪が降ってたよ(笑
あ〜〜〜、それわかるわ。
なんかね、親切したくってもね、なんかテレが出る。
先日ね、天神でさ、杖の人が転んで、道の端で足をさすってたの。
「なにかお手伝いありますか?」
って言いたかったのに、唯一の流暢に出る決まり文句「めいあいへるぷゆ〜」がなんでかでて
そりゃ、赤っ恥だったわ。
目が見えない方だったから良くはないけど、ちょっとほっとしちゃった。。。
でもね、声をかけた後ね、少しの時間、
「この道は、オミアシの悪い方、目が見えない方に、親切に出来てるのだろうか。。。」
これをね、考え込んでしまった。。。
なかなか良い経験だったよ。。。
小さい頃ね、車椅子が羨ましかったらしく、
「あれが欲しいあれが欲しい」と珍しく騒いだらしい。
その次は、アンマさんが持ってた、座頭一のような杖。。。あれが欲しいと。。。
幼稚園に入る前よ。。。
いや。。。なんでそんなことおもいだしたかってとね、
シロ君がさ、子供ってねって言うからさ(笑
いやいや、余裕が出てからは、母もね、「あ〜〜〜お金が無いお金が無い、ウチは貧乏よ!」
って、しょっちゅう言ってたわ。
父は「あいつが使ってるからなんだけどなぁ〜。。。」って(爆
母はね、自分のことには使わないけど、父や子供や仕事関係に、すぱ〜〜〜んと使う人で
その使いっぷりを見て、「うわぁ。。きっとウチにはお金は残ってないぞ」と
父が思って、また頑張ると言う(笑
余裕が少しある方が、無い無い言うもんだわwww
女の人にガマンさせるとさ、なんか悲壮感があるからさ
ガマンさせちゃイカンね。
なんかさ、「可哀想な人だった。。。私が居て少しは幸せだったろうか。。」なんて、
娘が考えてしまう。。。
だからね、娘ばかりの家の母親は、娘と一緒に口を開けて待っていれば良いと思う。
そして父親がひ〜ひ〜いいながら、働けば良いと思う。
それがなんとなく微笑ましいのだ。
泣くなよぉ〜
お母様は、絶対に幸せだったぞ。
母の為に急いだ結婚だったとしよう、それならばだ、お母様が下さった幸せだ。
母は、それすらも喜んでるぞ。
サラリーマンとか公務員の子とか、金銭や生活の感覚が違いすぎてビックリした子供時代。
ただKINACOさんと違うのは、父は自分だけはいいもの食べていたことでしょう(-_-;)
全てではないけど、そういう人多そうだね。。。
淋しいことだけどね。。。
私が一番父とケンカしたんだけどね。
椅子投げ合ったり、噛み付いたり、そりゃまぁ、色々よ。
「パパは娘生んだはずなんだけどっっっ!」って、ケンカの度に言ってたなぁ。
でもね、なにがあってもね、こういう父を思い出すから
なんだか少々のことは許せたなぁ。。。
ほら、バランスが悪い人だからさ、「はぁ?あんたあんまりしたこと!」って事もするんだわ。
それでもね、まぁいいかぁ。。。って思えたわ。
そうだよね。。。それとさぁ、希望があると、貧乏だってガマン出来るね。
信じるココロがあればね。
いいね。。。そういうのっていいよ。。。
「死ぬ前に、腹いっぱい身が食いてぇよっ!」には、笑いました(^▽^)☆
ステキな話を聞かせてくださって、ありがとうです!
優しい気持ちになれました。
やっぱ父ちゃん母ちゃんはエライ!
自分はそういう親になれるのだろうか・・・。
ちなみに私もタカナ好き!
エエ、お父さんやなぁ~。 そこまで、子供のことを思えるって、羨ましくもあるなぁ。
これ、「ボロは着てても心は錦」、歌の文句では無いけど、貧しい心では無かったってことの証ですわ。
貧乏に関しては、ワテもド貧乏の幼少時代を送りましたわ。 ワテを育ててくれたのは、親父の母親、つまりお祖母ちゃんやった。 早くして連れ合いを亡くし、女手一つで2人の息子を育て上げ、次男は叔父のところに跡継ぎが無いから養子に出したら、長男(ワテの父親)が若死にして、またも孫を育てた人やった。
息子を一人捨てて、再婚した母親、ワテは成人してからも、「お母さん」とは呼ばなかった。 連れ子で行ってた弟が家出をして帰って来た時に、ワテは進学を諦めたんや。
まぁ、そんな中でもお祖母ちゃんは、気持ちだけはシッカリしてたわ。 色々と教えてくれたもんな。
そやから、どんなに貧乏でも、いじけることは無かったのが、今までのワテのベースになってると思ってますわ。
大昔に、「今日もコロッケ、明日もコロッケ」って、歌が流行ったことがあるけど、当時、我が家では、そのコロッケも月に1度のご馳走やったもんな。
それを、先日、我が家のヘルパー。アイリーンに「ベタな大阪風ビサヤコロッケ」として、作り方を教えた時に、当時のことを思い出したわ。 今、我が家では、完全にマスターしたアイリーンが作るコロッケが食えますわ。
たぶんね、子どもを飢えさせることだと思う。
清貧って言葉はあるけど
逆はないね。たぶん^^;
等しく貧しくはあっても
等しく豊かにはなれないんだなぁ。。
人ってここが難しい。
なんか泣けてきました^^;
貧乏って、何でしょう…
気持ちの貧乏には、なりたくないです。
貧乏も~家族が一つになって~いいような・・・。
俺も~小さなころ~冬になれば・・・
氷点下の借家に~住んでたよ^^
子供って凄いな。
疑いっていうものが無いから、
子供のころに持ってた遠慮のない優しさを思い出させてくれるんだ。
大人になったら、人に優しくするのにも冗談でも言って、言い訳しないと親切できなくなっちゃった。
うちの母は、いつもお金がないお金がないと言っていたので、
うんざりでした。(笑)
だから、自分の子には絶対に言うまいと・・・
うちはガマンしていたのは母だけだった…
目先の利益しか考えない人間が多いからね。
子供の頃はそう、何でも真に受けてしまいますもんね^^
ウチも似たようなもんでしたから分かりますwww
貧乏ってお金じゃなく、心だと思います。
金は無くとも心歌かに生活すれば幸せ。
こころ荒めば貧乏。そう思っています。