日本語を書く部屋 リービ英雄
- カテゴリ:小説/詩
- 2010/09/10 21:53:31
アメリカに生まれ、少年時代を台湾、香港で過ごし
1967年に初めて日本に移り住み、日米往還しつつ大学で日本文学を教えていた。
現在は日本在住で日本語で小説、評論を発表。
「万葉集」の英訳で全米図書賞を受賞。
よその国の人が日本の古典を語る。それも日本語でというかたちに
とても不思議な気がしました。
それくらい「日本語」は日本人のもの、という印象が強い。
作者は北京語と英語もできるが、二つの大陸の言語と日本語についての
発見が面白かった。
---引用----
「日本語で書く部屋」を一度確保してからそんな「往来」をしはじめたことによって、大陸の言語にはない「こちら」のことばの、ただ遠くから眺めていた時代には分からなかったもうひとつの特性が、少し見えるようになった、という気がする。ひとことでいうと、「多民族」を自称する大陸の書きことば------アルファベット一色の英語や簡体字一色の中国語-----のほうが「単一」的に見え、逆に「単一民族」にしか分からないと自他ともに信じられてきた島国のことばのほうが、実は「単一」性からよほど遠い複合的な豊かさを内蔵しているという「発見」である。
そのような「発見」はもしかしたら、一人の日本語の書き手による、大きな真実の小さな「再発見」なのかもしれない。たとえばアジア大陸の出身者たちが自ら日本語を書き出した『万葉集』の時代、つまり大陸との往来という文脈のなかえ島国が「言霊の幸う国」であると山上憶良によって歌われた時代には、大陸文化と対比をなす形で日本語の魅惑がはじめて浮き彫りにされたのではないか。
大陸へ出かけては島国にもどる。大陸へ出かけては「日本語を書く部屋」にもどる。そんな体験をした者なら誰しも、「伝統」だけでは片づけられないその魅惑を今、感じるのではないか。
---引用終わり----
ほかにも「『古事記』はひとつの奇跡である」では
日本の神話である古事記を中国から輸入した漢字で書こうとしたことの意義と、
その成果についても、「神話は本来、外国語で書かれたらちがうものになってしまう。外国の文字を使いながら和文脈で書こうとしている、その緊張感がすばらしい。」という趣旨のことを書いています。
彼は「古事記」を戦前、戦後のイデオロギーから引き離して捉えたいと言い、
「これだけの神話テキストをそういった近代イデオロギーの中で論じるのは、ちょっともったいなさすぎる。神話と政治は引き離して考えるべき。」と…。
我が家のトイレには「古事記」「万葉集」「徒然草」の文庫があります。
母が持ちこんでるんだと思うけれど、時々読んでみると確かに面白い。
ギリシア神話が大好きだった自分が古事記を読んでないのはなぜ?
と思いましたが、理由は漢字の名前が覚えにくかったからでした。