指先から手の甲へ沿って舌を這わせる。ひくんときよしが反応したが、引っ込めはしない。　艶やかな表面はチョコレートのような舌触りだったが、溶けたりはしなかった。
「旦那様……」
「きよし……」
　きよしはじっと俺を見ていた。そこに、怯えはない。何もかもゆだねきった、信頼ゆえの瞳をしていた。
「……もういい。寝るぞ」
　俺はなんだか調子が狂ってしまった。さすがに、純真な小動物を己の欲望のままに泣かせる趣味はない。
　それに、これ以上実験するのも怖かった。もし俺の過ちできよしが消えてしまったら、きっと俺は猛烈に悔やむに違いないからだ。
　もうすっかり、俺はきよしを受け入れてしまっている。
　「……あったかいです、旦那様……」
　自分の気持ちが妙に照れくさくて、ぶっきらぼうに背を向けた俺に、きよしはそっと両手を押し当ててきた。
　よせよ。それは反則だろ……。
　俺が向き直ると、きよしは幸せそうに微笑んで、ぎゅっと抱きついてきた。
　かわいい……かも。俺は、きよしを突き放すことができなかった。
　俺の胸元におでこをくっつけて、すうすうのんきな寝息を立てるきよしを見て、俺はくすりと笑った。

　ずっとひとりだったから、だろうか……。誰かが傍にいてくれることが、とても心地よい。

　ネズミの精め、やるじゃないか。勝手にうちのジャガイモを齧ったことは、目をつぶってやる。そうだな、これからはあいつ専用に飯を用意してやってもいい。

　家族が増えるのは、悪くない。あのネズミも含めて。

　昔飼っていた犬のことを、また思い出していた。あいつも、こんなふうに俺の身体にすりよってきたっけ。

　きよしを抱き枕にして、俺はいつしか眠りに落ちていた。
 

　翌朝。俺は、皿と鍋が一斉に床に落ちるけたたましい音で目を覚ました。

「なっ、なんだ？」

「ご、ごめんなさい……」

　寝起きのだるい身体を叱咤し台所に駆けつけて、あぜんとする。

　俺が昨日脱ぎ捨てたシャツ一枚の上に、俺愛用のエプロンをつけたきよしが、床に散乱する割れた皿や片手鍋を前に途方に暮れていた。どうやら朝食の支度をしようとしたらしいが、てんで不器用だったようだ。

　きよしの格好は平静時なら思わず欲情しそうなものだったが、今の惨状ではそれどころじゃなかった。

「おいおい……ネズミの精、話が違うじゃないか。俺は料理上手な嫁さんって頼んだはずだぞ？」

　掃除機出して、雑巾で床を拭いて。面倒だなあと思ったら、つい愚痴が出た。がりがり頭を掻いて呟くと、またきよしが、しょぼんとしている。はーっ、と俺は溜息をついた。でも、顔は笑っていた。自分でも不思議なことだった。

「いいよ、もう。俺が一から教えてやるからさ。ゆっくり覚えていけばいい」

「旦那様……」

　泣き出しそうだったきよしの顔が、朝日を受けて笑みこぼれた。うん。やっぱりこいつは、笑っている顔の方がずっといい。

「じゃあ、まずは大根の皮の剥き方からだな」

　床の後片付けを済ませたあと、俺はきよしに包丁の持ち方から教え始めた。まな板を前にするきよしの後ろに立ち、きよしが持つ大根と包丁に自分の手を添える。

「……どうした？」

「……旦那様の手、……あったかい」

「……」

　きよしの耳が、真っ赤に染まっていた。つられて俺も頬が熱くなる。

「……始めるぞ」

「はい」

　照れ隠しに小さく咳払いして、俺はきよしに介添えしながら大根の桂剥きをした。

　――大丈夫。守れるさ。

　俺がきよしと暮らし続けるための、約束事。

　ひとつ、汝、据え膳を食べるべからず。

　……その後、俺はこの誓いを守るために、男として苦難の道のりを歩むことになるのだが……、それは、また別の話。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　おわり