臓器移植法の改正案
- カテゴリ:日記
- 2009/04/21 00:42:00
臓器移植を海外に頼る日本に対して、国際的な風当たりが強まっているそうです。
世界保健機関(WHO)は5月の総会で、渡航移植の規制を強める見通しだそうです。
この動きを先取りして、アメリカでは日本からの臓器移植を断った病院もあるとか。
それにともない、臓器移植法の改正案をめぐる国会の動きがにわかに慌ただしく成りました。
今更という感じはしますが・・・・1997年施行の臓器移植法は付則に、3年後を
めどに見直すと定めていました。最初の改正法案の提出は2005年。廃案と継続審議で
たなざらしにして、論議を避け、問題を放置して来たんですから。今回はどうでしょうか?
私自身ドナー登録をしておらず、あまり偉そうなことは言えません。自分が死んでから
体をどう使われようと構わないのですが、家族の体となるとちょっと自信が有りません。
まして、子供の体ならなおさら・・・・でも、国内は法律で禁止されているので、海外で・・・・
と云うのも、虫が良すぎるような。病気の家族を抱えている方々には切実な問題ですので
法律だけでも早く整備してほしいものです。何もしないのも罪ではと。
p.s 移植された臓器に、過去の記憶や感情が残っている・・・と云うドラマや漫画が有りますが
どうなんでしょうね^^;
臓器移植をすること自体に賛成できないです。
でも自分の子供のためだったら、どんなことでもして、
臓器を手に入れそうな気がする。
臓器売買など黒いうわさがいっぱいだから、
規制するのでしょうね。
父が、くも膜下出血で倒れたとき、挿管されて、
もう意識は戻らないし、出血レベルが4なので処置はしませんと
医者に言われても、家族、親族みんなは植物状態でも、生かしてくれと
頼み、無駄な手術もしようとしました。
でも2,3日すると、不自然な形で生かしておいてはいけないと
なんとなく納得でき、延命を望む気持ちはなくなりました。
脳死を受け入れられれば、臓器を有効活用する道は開けるのでしょうね。
↓あっちゃんのおっしゃるとおりで、子供たちに優先的にまわせるなら、
ドナー登録してもいいかなと思います。
生命のどこまでを神の領域に含めるのか・・・迷いはありますが。
子供を助けてあげて欲しいもんだ。
脳死で時々ひくひくするだけの人間を間近で何ヶ月も持ったら、重くて重くて・・・
私は生きてるだけでありがたいとは思わなかった。
それよりも次の人の役に立って欲しいと思いました。
本人も不本意だと思う。
丸裸でオムツされて時々薄目を開けてひくひく・・・
ドナーカードを持っていなかったばっかりに、ただの燃えるごみになってしまいました。
あたしならば、誰かの役に立ちたい。
でも、慎重すぎて、「石橋を叩き壊す」ようなことだけは、止めてもらいたい。
自身、親が腎臓病を抱えていて、いつ必要になるか(父自身は、移植をしてまでは、、と言う。)わからない。
ましてや、子供が重い病になり、臓器移植が助かる唯一の道だとしたら、、、。
迅速な法改正が、待たれます!
p.s 「パラサイト・イブ」というホラーがありましたが、、。
意識が、あったら怖いですが、、。
心臓は、やはり、驚いたときなど、ワンテンポ「ドキッ」とするのが遅いとか、、、。^^;
身内に以前白血病で骨髄移植をされた方がいらっしゃいました。。。
幸い双子の方でしたので、97%と言う高い率での移植でしたが、
移植する方の方にも色々と説明があって…
骨髄を取る時に半身不随の危険性もあると伺って吃驚した記憶がございます!?
それに…提供者の方のところに何回かお見舞いに伺いましたが…
移植を待たれていらっしゃるご本人やご家族のお話をお聞きするのが…
とても辛かった思い出がございます。。。
実際、去年私の知り合いで 私より元気だった人が突然急性の病にかかり・・・・
まだ若いのに・・・
自分の家族が ”提供されなければ手遅れになる!”という事態になったとき、
お役人さんは この日本の法律のひどさに気づくのでしょうか・・・・
PS.映画の見過ぎですぅ~
できないでいる自分が居ます。
なにか 良いキッカケが作れるといいのですが・・・
確かに、(ドラマで見ただけですが) 残された家族にとって
臓器や皮膚の粘膜など、体中の生きている部分を
切り取られていく姿は、相当キツイものがあると感じました。
臓器移植が 適正に行われいれば 問題ないのでしょうが このような大金が動くことは必ず悪巧みする人間がでてきますよね。
借金のかたに臓器を売るなんてはなしも聞きますし。
政府として 対策などを考えてから 法改正をとなると 時間が掛かるのでしょうか。
ただ この期間に 移植しないと助からないという患者さんを抱えている家族は 拷問をうけている気持ちでしょうね・・。
定めねば、救われない人は救われないままに過ぎる、という悪がまかり通ってしまう。
原則に、幅を持たせ、当事者たちそれぞれの特殊事情に対応できる、
そうした、非原則的な原則、のような規範が、ただそれだけが、許されるように思います。
しかし、幅を持たせた法は、その幅にこそ常に悪がつけこむ空間ができるし、
その幅が、別の不幸を許す余地にもなってしまいかねませんが、
それでもなお、幅のある法、のみが、必要なのではないかな、と思うのです。