言う優しさと、言わない優しさ
- カテゴリ:人生
- 2011/05/27 23:43:31
こういうネットでのやりとりだと、言葉を発するかどうかの選択は、少なからず見る人に影響を与える。
コメントがついてるか、ついてないか。
そんなことにも一喜一憂するのは俺だけじゃないはず。
コメントついてないと、無関心だと思われてる?
いいや、それは違うよ。
言うべき言葉が見つからないだけなんだ。
人にはお互い、共通言語というものがあるそうだ。
相手の文章から、自分にもわかるものを読み取り、それを話題としてコメントにしていく。
人は自然と、そういう作業をしている。
お互い絡みづらいなと思うことがあるのは、共通の何かを共有できないせいだ。
何も知らない他人同士が通じ合うのに、一番有効なコミュニティ手段は趣味だ。
それから、悩み。
でもこの、誰かの悩みというのが大変なもので、何か言葉をかけてあげたいのに、言葉が出ないことがままある。
知らず知らずのSOS。その人の抱えている悩みや苦しみなどが、言葉の端々にあらわれているかと思えば、アバター画像に無意識の、あるいは無言のメッセージを伝えていることもある。
実際に顔を合わせてはいない、このネット上の空間で、相手の真意を読み取るのは難しい。
自分の与かり知らぬところで、自分の友達が苦しい思いをしていると気づいた時の苦悩。
しかし、それでもやっぱり直接は手を差し伸べることはできない。
ネットであること、そして、悲しみはその人本人の問題であって、どうしたって本人で解決していくしかできないものだからだ。
相手に寄り添いたい時、力になりたい時、言葉をかけるしか、ネットではできない。
けれど言葉は時に不必要なこともある。
相手の悲しみが大きければ大きいほど、ささいな慰めはかえって相手を傷つける。
何も言葉が出てこない。それでも何か伝えたい。
自分はあなたをこんなにも思っているということ、案じているということ、それをわかってほしいと思うことすら自己満足なんだろうけれど…。
相手を思えば思うほど、無言というのもまた、ひとつの選択なのだと思い知らされる。
それでも、たとえ紋切り型の慰めの言葉でも、目から見る言葉は癒しにもなるわけで…。
言葉が足りないかもしれないけれど、誤解を生むかもしれないけれど、俺は、
あなたはひとりじゃないと伝えたい。