死ぬなよ 信玄
- カテゴリ:勉強
- 2011/06/18 09:22:32
武田信玄は、戦国時代でも指折りの強力軍団「武田騎馬隊」を擁した、よく知られた戦国大名です。
一時期、DVDで昔の大河ドラマ「黄金の日々」を観ていたのですが、信玄は登場しないのですが、甲斐の国(山梨県)から徳川家康や織田信長の小さな城や部隊を蹴散らして、信長の本拠地に迫ってくるパワーと、それに恐怖する織田軍が上手く描かれていました。
時は、1573年。信長のおかげで将軍になれた足利義昭は、自分をコケにする信長への怒りから、各地の大名や武装勢力に手紙を書きまくり、ついに信長包囲網を完成させます。信長の周囲は、京都の義昭と諸勢力、伊勢長島から本願寺までの一向宗徒、近江浅井と越前朝倉で西側をブロックし、そこに東から信玄が全軍を率いて攻めてくる。
信長は、ここで極めて合理的な作戦に出ます。
信玄とは本気で戦わずに、ひたすら西側、それも京を目指すのです。
京の義昭軍がいちばん弱く、義昭もヘタレだからです。
弱い相手から各個に撃破し、決して自軍より多勢を相手としない。集中とスピードという発想は、現代企業でも使われる戦略です。
そして、信長の狙いは的中、越前朝倉軍が恐れをなして国に戻ってしまうのです。包囲網が崩れたため、信玄は快進撃を続けながら、一時進軍を止めます。信長は、恐れることなく京に進み、義昭は逃げだします。教科書では、ここで室町幕府終焉となります。
この辺から、資料も少ないのですが、信玄の進軍停止は、信玄の深刻な病も原因といわれています。武田信玄死亡、50過ぎですから、ある意味妥当なところかも。
お話的には、出来の悪い息子・勝頼のムチャで、武田軍は弱体化し、信長・家康連合軍の鉄砲に破れ、武田家は滅亡となります。でも、そうなるには数年かかっており、包囲網を各個撃破し続け、武田軍を圧倒する兵力になったからこそ、決戦を挑めたのでしょう。
さて、本題ですが、信玄が病でなかったら、たとえ朝倉氏が離脱しても、信玄は京まで進攻し続けたのかな?という想像です。信玄は、幕府を開くとか、天下統一といったビジョンはありませんが、確かに戦としては強かったのですから、進軍を続ければ、まず家康、さらに織田軍の各部隊も次々と破れたのではないでしょうか。
信長vs信玄の決戦といったことには成らずとも、戦国の世から天下統一へと舵をとった武将の多くが信玄に破れ、あるいは命を落としたかもしれません。
ずーっと戦国時代?
この場合、西日本を中心にキリスト教がすごく盛んになっていたかもしれませんし、伊達政宗が東北くらいは制圧したかもしれません。大坂城は築かれず「プリンセス・トヨトミ」という作品もなかったかもしれません。それと、朝鮮出兵がなくなったら、もう少し隣の国と仲良しな歴史があったかもしれません。
まぁ、妄想なのですが、「もし一つだけ歴史のイベントを変えて、大きくその後の歴史を買える」力を得たら、僕は「1573年に信玄が病にならず、進軍し続けた」⇒「信長が天下布武を達成できなかった」⇒「延々と戦国時代が続いた」に一票なのでした。
あ、上野樹理が信玄に「どうして戦だけなのですか、この髭ダルマ」と説教して、「江」幕府を開いていたかもしれないですね(ウソ)
「どっちが正統」っていうことより「誰の血筋がつながっているのか」という方が一目瞭然だと思うのですね。
それでいくと今の天皇の系譜は江戸中期からきっちり1本につながっています。
昨今言われる「女性天皇問題」ですが、私は「直系の女子につなげるのと数百年前に枝分かれした遠い親族の男性につなげるのとどちらに正当性があるのか」という問題に言い換えても間違いではないと考えています。
性染色体説なんてのは牽強付会で奈良時代の律令の但し書きに女性天皇の後継について触れているところから考えても当時は「男子でなければならないというわけではない」という考えがあったことがわかります。
戦国時代は家系の一新が図られた時代でもありますから、出自がわからない、あるいは後に作り変えられたと考えられる武家がごろごろ出てきます。
そうすると各種の記録も曖昧にならざるを得ない部分もあります。
もちろん戦火でも多くの記録が失われたことでしょう。
織田信長にしても家臣が一代記を書いていなかったら宣教師目線の記録しかなかったなんてことになりかねなかった状態ですから。
「わからないことが多い」というのは小説家にとってはおいしい環境ですから、今後もあの時代を舞台にした小説は多く生み出されていくのでしょう。
小説が元になっていると了解していたら小説史観もよいのではないですかね。
古今東西を問わず、公文書が全て真実とも限らないのですから。
足利尊氏=国賊、義貞・正成=忠臣として、そもそも、南朝正統という苦しすぎるところを基盤にしていた皇国日本の歴史教育のように、ある価値観に基づく俗説がそのまま定説的に一般庶民(僕ここ!)に信じられてきたってのが、戦国時代を中心にあるんでしょうね。
「徳川史観はダメだで、秀吉復権だぎゃぁ」なんて新書をこないだ書店で見掛けたし、「武田騎馬隊は実在せず」ってのも大論争に一部でなってますよね。まだまだ、戦国は熱い、邪馬台国並みか?
講談史観とか、江戸時代の偽書というか公式でない歴史文書が、現代の歴史観を形成していると思うけれど、司馬先生だけでなく戦前からの歴史小説が下地になっているものも多いですよね。
龍馬しかり、赤穂事件しかり。結構好きですけどね、講談史観w
信玄ファンが聞いたら卒倒するか激高しそうですが。
父親を今川に追放して今川に頭が上がらない状態を作る。(甲斐の情報筒抜けになったし。)
上杉との益のない戦いに拘泥して時間を浪費。(いくさ慣れはしただろうけど。)
今川義元横死後の対策で嫡男と対立して自害させてしまう。(家臣団も対立。)
勝頼を不安定な立場の跡取りにする。(改名させず。孫を本来の後継者として扱うなど。)
自分の死を秘するよう遺言。(結果として「信玄後」の体制構築に遅れが出た。)
特に後継者については目も当てられない。
彼自身が武将として安定した実績が残せたのは弟信繁によるところが大きいのではないかなぁ。
だから彼の戦死後ガタガタになる。(これは豊臣も同じですね。)
甲斐・信濃にこもっていた信玄が外に出てきたのは、変な話ですが信長がいたから。
彼が今川義元を破ったから徳川家と共謀して今川領に入ることができたわけだし、信長の勢力拡張をみて「あの青二才にできるのなら自分にも」と考えた。
でも兵制が旧態依然だから制約だらけ。
そこで自分の寿命を考えて、織田・徳川と手打ちしておけば勝頼もおそらく滅ぼされることはなかったでしょうに。
信玄の評価が今でも高い理由はおっしゃるとおりだと思います。
本能寺の変以降の甲斐の混乱を家康が収めることによって、甲斐衆は名実共に徳川を支える集団となりましたから。
対して江戸時代に評価が低かったのは織田信長と今川義元。
今川義元は最後は横死してしまいましたが、それまでは東海地方で最強の武将であり内政もしっかりしていましたが、家康との対比で「公家気取りの馬鹿武将」みたいな扱いになってしまいました。
織田信長は今では信じられませんが、江戸時代の評価は明智光秀以下。
足利義教の二番煎じと考えられていたんですね。
見直されるようになったのは、なんと戦後。
意外と正式な記録が少ないものだから自由に演出できるという坂本龍馬のような人でもありますし、現在のドラマで重宝しているのはわかる気がします。
なんというか、第2回の歴史ネタですが、たぬ休さんのコメントで教わることを当て込んでます(笑)
武田軍に遠征上の制約あるというのは、その通りですよね。だから、俗には上洛狙いと言われる信玄の西進も、義昭の書状を大義名分とした徳川潰し・海路確保と考える人達もいる。私は、勝手に、死期を悟った信玄が進めるところまで進み少しでも徳川領を奪おうとしたのかなぁとも思ったりします。
そして、信玄が死ななければ、家康は必ず対決しなくてはいけなかったわけで、敗死する可能性は十分すぎるほどありましたよ、絶対。3英雄の中で、カリスマ性だけに依らず、誰がトップになっても崩れない体制を築けたのは家康だけでしたから、彼なき時代は、ホント不透明だったかと。
そういえば、信玄の評価って、徳川幕府になって、家康を打ち破った唯一の武将ということで意図して幕府が持ち上げていったという見方をする人もいますよね。実際、大久保長安の金山開発とか井伊の赤備えとか、武田の遺産は家康の隠し財産だったようにも思いますし。
歴史の楽しみ方は 十人十色だから、妄想もありだし、真面目に向きあうのもOK。
自分が楽しくなるアプローチが見つかると、意外な発見もあるかもしれないと思います。
僕は、高校は世界史を選択していて、2年間の試験で殆ど不正解なしというチョー優秀でした。すっごい自慢です、赤点とか追試とかあり得ないでしょヘヘ
でも、キャラ濃すぎの世界史の先生は、その間、ひたすら女生徒を喰いまくっていたというショックw
あ、僕の歴史を学んでも仕方ないですよね、失礼しました。
彼の軍隊は農民兵が主体ですからね。
騎馬の武将ももちろん大勢いましたが、歩兵が多い以上、進軍速度は歩兵に合わせざるを得ず、モンゴルの騎馬隊のような神速の攻撃は望めません。
信玄が強かったのは、用兵が当時の信長や家康より巧みであったことと、農民兵は負けたら全て失うので必死だったということから。
信長軍は傭兵部隊中心ですから負け戦のように褒章が望めないものには極めてドライです。
例えば金ヶ崎の合戦をみると、秀吉がいなければ信長はかなり危うかったでしょう。
農民兵の最大の弱点は農作業に拘束されるということです。
川中島の合戦も農繁期には行われていない。
三方が原の合戦も農閑期だからこそ進軍できたわけで。
つまり、信玄軍はどんなに勝ち進んでも農繁期になれば国に帰る。
一方の信長軍は傭兵部隊だから年中稼動できる。
信長が急成長したのはこのためでもあり、それを支えたのは交易の利益だったといえます。
結果、短期では歴史が変わるかもしれないけど、長期的にみれば同じ位置に収束したのではないのかな。
家康は信玄と同じで農民主体。
信長に学んで交易の利益も知っていたけれど、基本的には発想が内向き。
だから家康軍は信長軍より強かったといわれているけど、信長在世中に追い抜くことはできなかった。
信玄のこの戦いで「もし」があるとしたら「家康が戦死していたらどうなったんだろう」とは思います。
駿河や三河を誰が支配したのか、信長は同盟国の穴埋めをどうしたのか、家康という重石がない状態で秀吉はどう振舞ったのか、秀吉死後の日本はどうなったのか、全く想像がつきません。
得意の妄想もこういう風に使えば、私の歴史の成績もよかったかもな・・・とさっそく妄想(^_^;)
何を隠そう?高校時代は日本史のテストの成績は良かったのです。
歴史じゃなくて先生が好きで丸暗記でしたが(苦笑)
ああ、ばか丸出しですいません。