ジョーカーの冬から夏の国より~その1
- カテゴリ:自作小説
- 2011/06/24 00:55:08
「そうめんが食べたい」
執務室に入って五分と経たないうちに、塔の主ナイトメアは愚痴を呟き始めた。
「私は今、無性にそうめんが食べたいんだ」
同じ部屋にいるのは、彼の補佐兼見張り役のアリスだけ。間違いなくナイトメアは、アリスに聞かせるつもりで呟いたのである。
しかしアリスには、彼の要求するものがわからなかった。
「……ソーメンって、なあに?」
「知らないのか? やれやれ、仕方ないなあ。偉い私が教えてやろう」
人にものを教えることが滅多にない領主様の、青ざめがちな顔つきが得意げになる。
「そうめんというのはヌードルの一種でだなあ――」
「夏の風物詩のひとつだよ、アリス」
ところが、ちょうど執務室に書類を運んできた補佐官グレイに、口授の機会を奪われてしまう。
「蒸し暑い日などに氷を浮かせて食べると美味い」
「グ、グレイ……このイイカッコしいめ、私が直々に説明やるところだったというのに」
忌々しそうに歯軋りするナイトメアのデスクには、書類の山がまた増えた。これ以上はもうデスクに積み上げられそうにない。
「これの確認もお願いしますよ、ナイトメア様」
「お前は私の話を聞いていなかったのか? 私は今、そうめんが食べたい、と言ったんだ」
ナイトメアはふてくされて、ペンを置き、ふてぶてしく腕を組んだ。
一方、敏腕補佐官はまだ片付いていない書類の山を数えつつ、溜息を漏らす。
「冬に食べるものではありませんよ。他の料理なら、仕事が済み次第用意させますから」
「いーや、今は冬の料理の気分ではない。私は夏の気分なんだ」
傍で聞くアリスも、やれやれと前髪をかきあげる。
(またワガママを……)
ナイトメアが駄々を捏ねる理由は何となく読めた。少し前にクローバーの塔の皆で、賑やかに冬の味覚を堪能したのだが。その時に限って、ナイトメアは風邪をこじらせ、自室で養生していたのである。
鍋料理も蟹もお汁粉も、自分だけが食べ損ねては、面白くないのもわかる。
もっとも、ナイトメアの不調を知ったグレイは、夕食会に一切参加せず、領主と同じ栄養食を選んだ。アリスも、ふたりの分を残しておこうと思っていた。
しかし、そのタイミングで役付きの客人が訪れたため、立場上、アリスが料理を振舞わずにはいられなかったのである。まさか「ナイトメアが寝込んでいる」と格好の悪いことは話せないし。
また客人が遠慮しない面々だったおかげで、ナイトメアとグレイの分は綺麗になくなってしまった。遊園地のメンバーは相変わらず元気すぎる。
かくしてご馳走を食べ損なったナイトメアは、それをまだ根に持っていて、冬の味に対抗すべく、夏の味に頑なになっているのだろう。
宥めるグレイは、いつにも増して困った表情だ。
「ならナイトメア様、また夕食会をしましょう。スピーチの練習にもなりますし」
「わかっていない……わかっていないぞ、グレイ。私が言いたいのは、そんなちっぽけなことではない」
ナイトメアの、ちっぽけではないらしい熱論を聞かされる。
「不公平だと思わないか? 遊園地の連中は夏を独占しているというのに、ここで冬の料理を楽しんでいった。ならば、私にも夏の料理を楽しむ権利があるじゃないか」
食べ物の恨みは根が深い。以前ナイトメアのモンブランがなくなった時など、大変だった。
「じゃあ……ナイトメア、遊園地まで行くつもりなの?」
「無論だ。私の権威と威信を、奴らに徹底的に教えてやる」
アリスとグレイのふたりは、一旦書類の山に隠れ、小声で意見を交換した。
「どうするの? ひきこもりのナイトメアが外出するのは、いいことだと思うけど……」
「行き先が夏では、な……到着する前に、日射病か熱射病で倒れることも考えられる」
「グレイはともかく、ア~リ~ス~、聞こえているぞ」
ナイトメアの指摘にはっとする。夢魔という存在は他人の心を読むことができるのだ。グレイのように、精神統一などで心理的な障壁を張っているならまだしも、アリスの思考全般はナイトメアに丸裸にされている。プライバシーの侵害どころではない。
しかし。ナイトメア相手に聞かれて困るようなことを思い描く局面は、案外少ない。
せいぜい、
(ひきこもりの駄目男)
(あがり症のチキン)
(領主失格)
くらいのものだ。
「ア、アリス……君はもう少し、私を尊敬するべきじゃないのか?」
「だったら尊敬できるくらい仕事をして頂戴」
ナイトメアの反応から大体の思考が読めたらしいグレイが、苦笑した。
「アリスの言うとおりですよ、ナイトメア様。今は仕事と割り切っていただかないと」
「生意気な補佐官たちめ……まったく、仕事など到底、手につかん。クールダウンのためにもそうめんを食べる必要があるっ!」
ナイトメアは子どもみたいにブツブツと、デスクを揺すってごねている。
(……コドモだったわね、このひと)
呆れるアリスの目の前で、書類の山が一斉に崩れた。
つづく