光の都と闇の辺境
- カテゴリ:30代以上
- 2011/12/17 07:46:13
電車の中吊り広告の文字に目が止まりました。
「光都東京」
キャンドルナイトの宣伝でした。
今年の春には闇に覆われ、夏にもその闇を引きずった薄暮の中にあった東京。
しかし、いま、街には燦々とクリスマス・イルミネーションが様々な色で輝き、巨大なクリスマス・ツリーも何の躊躇もなく多くの場所で目にします。
3.11から半年、まるで喪明けを待っての精進落としのように、電力使用制限令が解除された日から、口先で「絆」をいくら言おうとも、映像では「被災」「避難」の悲惨さがいくら報じられても、みんな「3.11」を過去の記録にして、現在の記憶から消し去ろうとしていったのでしょう。
「闇」と「揺れ」この平時にはない、そして、人間が古来恐れてきた異常に覆われていたことで、首都圏の人間も、被災者・避難民と「絆」を感じられていたように思います。
この「絆」を受け入れつつも、心のどこかでは「闇」と「揺れ」から解放されたいと皆が思っていたのでしょう。
確かに、電力制限令もなく、電力は十分足りています。
しかし、クリスマスを祝う、年末をはしゃぐ そんなことのために灯りを使うことは、本来の「自粛」から最も離れたことではないのでしょうか?
なぜ、こんなことになっているのか。
私達は、煌々と輝く光に3.11以前の生活を重ね、あたかも元に戻ったように必死で錯覚しようとしている。どんなに光を集めても、ここには3.11以前にはなかった巨大な「闇」があるというのに、その「闇」を必死でみないように、懸命に隠そうとしている。
そこには、放射能と 必ず来る再びの大震災という 巨大な「闇」がある。
「部屋に巨大な象が現れたとき 多くの者は 象が見えない振りをする」という言葉があります。それを愚かとは言えない。弱き者の小さな智恵なのかもしれない。しかし、巨大な象から背けた目には、その「闇」に包まれたままの被災者も被災地も映らなくなっている。
この世で最大の不幸は、
戦争や貧困などではありません。
人から見放され、
「自分は誰からも必要とされていない」
と感じる事なのです。
いまさらなマザー・テレサの言葉ですが、こんなクリスマスを迎え、結局は各局が例年以上にフザケタ番組を揃えた12.31を経て、きっと、2011.3.11は2011年とともに忘れられるのでしょう。
月命日のように、毎月11日に言われる「あれから●ヶ月」
「あれから1年」が終わったら、「あれから1年●ヶ月」はないだろう。
「絆」という言葉は、この国に満ち溢れているからではなく、むしろ、その逆だと皆が感じているからこそ、今年の一文字に選ばれたのだろう。
「絆」という言葉を一言いえるなら、目に見える「絆」を私達は現在持っているだろうか?
「闇」こそが、今年の一文字だったことに、目を背けないことしか、私達には出来ないのに。
計画停電も節電もなかった、あるいは時差出勤や業績への影響もなかった、西日本の多くの人には、募金とか支援物資を「送って」おわりで、それが「絆」となるんでしょうね。
阪神淡路での関東人も、そんなもんでしたから。
>闇を感じているからこそ
>光を見ていたい気になるのではありませんか。
それは現実からの逃避ですよね。
被災者が、そういう心理になることは、健全です。
しかし、被災地から遠く離れた者達が、被災地「闇」扱いして、それを見ずに「光」を見ていたいというのが、僕が今回疑念を呈したテーマなんですけどね。
「絆」ってのは、被災者・被災地を「忘れないこと」じゃないですかね?
それを、どう評価してくれるかは、被災者の方々次第。
自分から「絆できた」なんて、僕には言えません。赤い羽根募金とは違いますよ。
清水寺の選ぶ「今年の一文字」が「絆」だったことが、僕には予想できたとはいえ、ショックでした。
民族として皆が共有すべき「悲劇」「惨事」が「美談」にすり替わる、無意識の誤魔化しでしょ。
その象徴が「絆」
本当に「絆」なら、どれだけの人が、現在も継続的に支援物資や募金を続けているか?
どれだけの人が、行方不明者や仮設入居者数を今も知っているのか?
マザーテレサが、今なお世界中から称賛されるのは、彼女が半世紀以上もその活動を継続できたからでしょう。
光を見ていたい気になるのではありませんか。
今年の言葉は闇だったかもしれません。
忘れ去られることは寂しいことです。
ただ、これはある程度仕方がない事かも知れません。
大阪と兵庫は全く別の地区です。
関西とはいえ、大阪は被害がなかったに等しい場所です。
そこから学んだということは、そうなかったでしょう。
大阪は震災ムードがあった時期は非常に短く
その落差に、わたしたちは仕方がないと黙りこみました。
実際に仕方がありませんでした。
言っても分かってもらえないと知っていたからです。
兵庫県からは震災直後から、支援物資を積んだ多くのトラックが出発しました。
みんな居たたまれなかったんです。
あの時を思い出して、何かをせずにはいられませんでした。
支援物資呼びかけも県や市レベルで早く行われました。
それでもようやく神戸や阪神間はなんとか復興しました。
それが数年前です。
それ自体も距離の分だけ忘れ去られるのが早かったのは
コレも仕方がありません。
ただ、今回の大震災はもっともっと年月がかかることは
予測できます。
本当に暗い年でした。
でも、人は希望や何かを見い出したいという
願いがあります。
培われた『絆』もあったのかもしれません。
今回の震災では被災地のニコ友に
バーチャルから抜け出て支援物資を送り
リアルな関係に発展しました。
絆の一つかもしれません。
自分の身は自分で守る。国は頼りにならない。
それでいいんじゃないですかね。
それで、自分だけは生き残りたい。被災したくない。
それもフツーだと思います。
あとは、他者のために自分が出来ることは何かを考えて、それを出来るだけ実行していくことじゃないですかね。
国は頼りにならないのだから、政治家や官僚を揶揄しても、何も進まないと思いますよ。
自分が、彼らより何かが出来るなら、彼らに代わって政治や行政に関わればいい。
それが出来ないなら、選挙とか市民の立場で出来る形でコミットに努めるべきでしょう。
ネット社会について、他に政治や社会にアプローチする術がない国、中東のジャスミン革命に取り組む国々などでは機能しています。しかし、日本では、本来ある政治・社会へのアクセス権を行使することなく、不平不満を言うだけの人々を増やしているとの指摘もあります。
>誰も責任をとりたがらない。。。
それは、一人一人の国民も一緒かも。
放射能の問題は、課題として残る政治の問題だから、報道し続けるというのは一つあるでしょうね。
地震や津波の被災者の話ってのは、正直言って全国で年がら年じゅう流す話題じゃない。
まぁ、放射能難民やガイガーカウンター持って騒ぐ賢いママも、日本国民が揃って気にする必要ないわけですが。
これは「都会の身勝手」なんて、おさまりのいい言葉ではなくて、我が身のことじゃないって、それだけでしょ。
ペットボトル買い占めは、放射線が迫りくるって不安の中でのことだし、あのとき我慢した物資が被災地には届く輸送環境じゃないって言い訳も出来ていたし。東電の話は、そういう事実はなかったでしょ。あまりにバイアスのかかったネタになっている。
多分ね、東京直下地震があったって、メディアは同じような報道すると思いますよ。
目の前で殺人があっても、助けなきゃ死ぬ人がいても、カメラを回しマイクに話しかけるのがメディアの仕事だし。
それと、やはり、被災した人と被災してない人ってのは、同じ気持ちには絶対なれない。なれないからこそ、どうしたら、忘れないでいられるかが大事なんだと思います。
難しいのは、原発事故でマイナスの影響があった方達です。風評被害受けた人全てに地震・津波被災者と同じシンパシーは感じ得ないし、地元関係者や福島県民には、原発を受容したとか無関心だったという故意・過失はあるわけで、100%被害者面している人には正直鼻白む。
ふと思い出すと、節電要請を100%己の政治アピールにして、関西電力糾弾にすっごい形相だった知事さんがいましたね。それに快哉を叫ぶ、革新的な府民さんもいらっしゃった。とても、阪神淡路で何かを学んだ人達とも思えませんでした。一方で、3.11当日にはありったけの救援物資持って東北に向かった関西人が多数いたとも聞きます。結局は、個々人の民度や良識が問われるのでしょう。
津波の危険のある海岸ではなく、
洪水の危険を感じうる河川の近くではなく
火砕流の危険を感じる火山の麓ではなく、
良かった。
と感じるだけではイケナイ気がしますが。。。
真冬に長期間停電になったなら凍え死ぬ可能性の高い雪国に住む私は
自分と自分の家族が被災する可能性がある事柄について知りたいと思い、
その災害から免れる知識、被災した時にどのような対処方法があるのかを知りたいと思う。
津波の恐れのある地域には居住しなければ良いのか
放射性物質を恐れるのなら原子力発電を諦めて違う方法で発電すれば良いのか
津波からの避難についてのの報道でハードとソフトという話がありましたが、
対処法、どんな状況のときにはどんな形で避難すれば良いのか
どんな災害にはどんな避難所を選ぶのか
どんな災害のときにはどんな仮設住宅がどのくらいの数必要なのか
計算できないのでしょうか計画できないのでしょうか。。。
分かりきっているはずの
保育園の待機児童の解消もできず、
分かりきっているはずの少子高齢化による経済的な将来の不安を
解消する手だても考えられず決められない。
将来のことは先送り自分の今さえ良ければ後のことは気にならないような
官僚や政治家。
本当の意味で国をどうすればよいのかを考えることなく当選してしまった議員達。
誰も責任をとりたがらない。。。
自分の家族を守るのは自分。
だからといって他人を守らなくて良いということでもない。
先ずはそれぞれの立場でやるべきことをやっていくのが必要だと思います。
放射性物質の飛散にかんするニュース、福島の食品の安全に関するニュースが今は大半なんじゃないかって。
でも未だに三千人の人は行方不明のままだし、瓦礫の処理も進んではいない。
私が感じた今回の大震災のイメージは、現地の津波被害・原発被害のイメージなどとは別に、「都会の身勝手さ」なんですよね。
現地で食糧がなくて困っているって報じられているのになぜ買占めに走ったのか。
東京電力の原発が事故起こしているのに、なぜ東京電力は「必要なら電力を融通してもいい」的な態度が取れるのか。
報道でも現地と東京キー局には埋めようのない温度差があるように思えます。
今回の地震でも迫りくる津波の危険を報じようとする地方局アナウンサーがカメラを切り替えろってキー局に向かって叫んでいる映像がありましたが、阪神淡路大震災のときもありましたよ。
関西は大阪にテレビ局が集中している関係で、あの地震の時もまず大阪の店舗の被害等が先に報じられたという事情はあります。
しかし、既に報道ヘリ飛ばしているんだから、本当の被害状況についての一報は入っていたはずです。
にもかかわらず「たいしたことなかったんでしょう」という主旨の発言をして大阪のアナに「とんでもない」と否定されたキー局アナがいましたから。
きっと関東に大震災が起きないと実感がわかないのでしょうが、直接目にしていないことにも思いを致すのも報道の大切な役割だと思うのですがね。