自殺したいなら 死なせてやろうよ
- カテゴリ:30代以上
- 2012/03/09 21:59:52
GKB47ってキャッチフレーズが悪いという批判がありましたが、何のことはない、その言葉を除いて作りなおしたキャンペーンは、AKB48さんが頑張っちゃってます。
高橋みなみさんに「嫌われる勇気を持ちなさい」なんて言われると、15歳の男の子を何度も喰ったお母さん(44)のことを思い出さずにはいられません。
要するに、出来レースで決めた言葉だったんだね。
さて、そのときに圧力かけた団体が、自殺者の遺族でつくっている団体で、この人達の圧力は結構あって、自殺を減らすとか、自殺者の遺族に気遣いしろとか、法律まで作らせているんだよね。
誰か言ってやればいいのに、「あんたのせいか、あんたの力不足で、身内が自殺したんだよ」と。
実際、自殺する人って、励ましたりして、自殺やめたって、その原因からは逃れられないんですよね。自殺の原因1位は病気、2位は貧乏、これは、死んだ方がマシと思うなら、死なせてあげればいいと思わないです?
あと、イジメも、人によっては、中学は転校でしのいでも、高校でも、バイト先でも、結局いじめられて、仕上げはニートか引き籠りなら、死んだ方がよかったと本人後悔するでしょ。
他人を殺すことは絶対的な罪だけど、自殺はキリスト教徒でもない日本人には罪なんだろうか?
その人の人生を奪う殺人が罪なら、他人の人生を無責任に延長させるってのも罪じゃないのかなぁ?
自殺者は、公式発表で3万人、実は5万人とも言われています。
当たり前だよね、無駄に長生きさせられてる老人や、金もないのに頑張れっていわれるダメな大人や、イジメにも勝てない人生を強要される子供、世の中がそうなのに、弱い相手だけ生きさせるなんてエゴだと思うわ。
鬱病とかメンヘラーには「がんばろう」禁句なのに、自殺志願者には「がんばれ」連発してるのもどうなんだろう。
無責任な人生を強要して、結局は病人とか失業者とかのツケは税金で負担なんだから、それなら、安楽死とか本人の気持ちを尊重してやるのが国の仕事じゃないのかなあ。
GKB47キャンペーンのコストはいくらなんだろう?
ムダな税金使うなよなぁと思うのでした。
>其の後にどんな人生がその人に待って居るか、貴方は知って居ますか?
>其の解らない物を否定するのですか?
少なくとも、六道輪廻でないことは、フツーの人なら知ってますよ
>「死にたい奴は死ねばよい」のでしょうか?
人並みの読解力を身につけてから、他人にモノをいいましょう。
あなた、人並みの歳くってるんでしょ?
僕は、国家が税金つかって他人の死に介入すんなと言ってるだけです。
死にたいヤツをとめたい家族やNPOまで止めませんよ。
では、逃避型の自殺を中心に絞りましょう。
逃避は戻って来れます。
ですが、自殺は戻って来れません。
其の後にどんな人生がその人に待って居るか、貴方は知って居ますか?
其の解らない物を否定するのですか?
「死にたい奴は死ねばよい」のでしょうか?
無責任な人生を強要?
誰が強要してますか?
御趣旨を読み取ることが難しい書き方なので、ちょっと困ってしまいましたが、
確かに六道輪廻なんて話を持ち出して「自殺しても、もっと辛い人生になるよ、だから、生きよう」というのは、説得力がありますね。
当然ですが、六道輪廻を信じている人に限られちゃいますが。
>殉職はキリスト教も仏教も否定していません。
たぶん、殉教のことですよね。
>死ぬ勇気と言いますが、逃げですよね。逃避の一つですよね。
僕は、勇気なんて称えてないですよ。
まさに逃げなんで、逃げたいという人を無理に止めるなという意見なんですが、のたもたさんは「そう思わない」のでしょうか?
>自殺と言っても、色々な例があります。
>それらをひとくくりにして、自殺として判断するのも、どうでしょう。
そのとおりですね。
ですから、逃避型の自殺を中心に論じたのですが、より細分化が必要でしょうか?
死ぬ勇気と言いますが、逃げですよね。逃避の一つですよね。
キリスト教だけが自殺を禁止している訳ではありませんよ。
例えば日本人が仏教徒と位置付けているのなら、仏教に取っても自殺は否定されます。
また、仏教の場合は時には自殺した方が、もっと苦しい世界に落とされる事もあります。
私の祖母は普通のお婆ちゃんでしたが、人が死んだら、最短で7代の生き物に生まれ変わって
人間に生まれて来ると行ってました。
人間が死んですぐに人間に生まれ変われる人は人類の人口の内の一人位なのかも知れません。
殆どが虫や4つ足動物に生まれ変わって、何代も繰り返してやっと人間に生まれ変わります。
何百年もかかってやっと人間に生まれ変わったのだから、その時を大切に行きなさいと言われました。
色々な説が在って、余り詳しくは無いのですが「盲亀浮木」と説法の中に自殺するともっと苦しい世界に
落とされると言うのが在ります。
自殺と言っても、色々な例があります。
それらをひとくくりにして、自殺として判断するのも、どうでしょう。
唯、今の状況が苦しいから自殺するのは否定されてますが、殉職はキリスト教も仏教も否定していません。
広い意味の自殺ですけどね。
「死ぬ勇気があるなら、生きることは簡単です」これって、幸田シャーミンの名セリフらしくって、モノマネのネタで見たことがあります。
言われるとおり、自分で人生を終えることのハードルは高いものです。怖いモノだし、誰かに迷惑かける、誰かが悲しむと思いもするだろう。でも、それって、健常で幸せな者の感覚なのかも。
自殺したいって思う人は、精神が病んでいるか、生活や精神が追い詰められている人が大半でしょうから、判断基準が違うのではないかと。
いのちの電話とかの人は、そういう「誤った判断」をする人を正す、使命感と能力ある方々です。
彼らの努力で、死という誤った方向から引き返せたことで、人生に力を注げる人はいいのでしょう。
しかし、死という選択が誤った方向ではなく、正しい判断の場合はどうなのでしょう?
頑張っても克服できない苦境に対して、問題解決を強要するのは、エゴに思えます。
自殺は、名誉でも、勇気でもないと思います。弱く傷付いた者の最期の逃げ場じゃないでしょうか。
むろん、それに躊躇う人に やめたほうがいいよというのも 人間のあり方でしょう。それを宗教が担っている場合も多い。
でも、それは国家がAKBを連れてきてやることなのかなぁ?
ネズミの大量死と一緒で、この国(あるいは、学校や社会や家庭)で生きる価値や希望を失った人達の、最後の望みが「楽になりたい」なら、それは尊重すべきことじゃないですかね?
「死んだらどう」とは いくら僕でも言わないですよ(笑)
でも、その人を止めるのは、その人の周囲の人であるべきだし、あとは善意の皆さまもどうぞご勝手にです。でも、税金でやることなのかなぁ?
学校に自殺の責を問うのは、まぁ、仕方ないけど、理不尽なケースもあるんだろうね。
子供の自殺=イジメ的にメディアは紹介するけど(注:イジメでない自殺は報道しない)、実際は、進路や頭の悪さを苦にしての自殺が多いらしい。あと、若者特有の理由のよく分からない発作的なものとか。これらでは、さすがに学校を責めまくれないでしょう。
イジメについては、被害者・加害者・事件の主たる現場が学校ということ、それから、学校の安全配慮義務なんてのがあるんでしょうか。よく映画であるネタだけど、一度でいいから、イジメで自殺に追い込まれた子供の親が、イジメた連中や家族をぶち殺す事件があるといいと思う。裁判員裁判になるし、イジメが、そんな適当なものでなく「傷害」「暴行」「脅迫」「名誉棄損」などなど犯罪であるという意識が国民大で共有されたら、対応も変わるかも。
障害者の自傷行為ってのは、言っては悪いが正常な判断機能が壊れているから、傷つける対象が自分に向いているんじゃないの?自殺と自傷行為って、似て異なるものというか、自傷行為をする健常者も、精神的に病気だと判断されますよね。
死なないで 「頑張り」ましょう
コメントありがとうございます。
これが本音、でも人前では言いません。人非人扱いされますからね。
「長く暗いトンネルも、必ず出口はある!明けない夜はないから!」(建前)かしら。
思うのですが、「自殺願望」というのは一種の「麻薬」のようなものなんです。
苦しみから抜け出せる唯一最良の行為。
その魔力に取り憑かれたら、正常な判断などできなくなります。
つまり第三者がどんなに親身になって「生の意義」を唱えたところで、ほぼ無意味ということ。
かつて仕事で「自殺願望」の人たちの心理を調べたことがあります。
この「病」には段階があって、初期~中期では生還率が高いです。
彼らの願望は決して死ぬことではなく、第三者の手を借りて苦しみから抜け出したい。
つまり「生へ願望」の裏返し。
例えば自傷行為を繰り返すのもこの類の人達。決して致命的な傷には至らない。
例えが飛躍しますが、「振り込め詐欺」の被害者心理も類似点があるのです。
相手を疑いながらも振り込んでしまう。
それは、不安・怖れetcを一刻も早く消去したいがための行為なのです。
ヒトはコントロール不能な心理状態に陥ると、往々にして短絡的行為に走りますからね。
冷淡な言い方ですが、すべては「自己責任」。自らの引き際・身の処し方は自分で決めたらいい。
その昔、日本人は潔く美しかったではありませんか。「自決行為」も誇りを守るため。
細川ガラシャではありませんが、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花は花なれ人も人なれ」です。
・・とは言っても今の世の中、自殺願望のある人は数知れず。
その中で「行為」ににまで及ぶヒトは、ほんのわずかなのです。
「死」も人を選ぶのでしょう。
いくら死にたくても、生き残ってしまう人がいる。
本気で死を前にすると、後ずさりする人がいる・・。
死神に取り憑かれたヒトは別として、死ぬには多大な勇気が必要です。
その「ふんばり」を、問題解決に向けたらいかがでしょうか。
『死ぬ気で頑張る』などと昔から言いますが、死ぬ気で敵と戦うのです。
その後、それでも死を選択するのなら「名誉の自殺」です!
この問題は、第三者がどう頑張っても効果は極小。
全ては自己責任。無責任ではなく、権利です。
「親が助けられなかったのに、赤の他人の先生が助けられるなんてあるの」って。
ニュースでは「学校は把握していたのか」「なぜ防げなかったのか」って毎回言ってますが、学校が把握できる確率より親が把握できる確率の方が高いでしょう。
(全寮制の学校とかなら普段はわからないかもしれないけど。)
最悪どこの学校でも上手く人間関係を築けないとしても、今の「総高学歴化社会」なら親が義務教育分の勉強みてやることも不可能ではなかろうと思う。
対人関係に難があると思えば、そういった問題を感じずに済む職業を探して手に職つけさせるのも不可能ではないだろうとも。
なのになんで責任は学校な訳?
私に子どもはいませんが、いたとして子どもが自殺するほど追いつめられてたのに気付かなかったら、赤の他人の責任にして賠償請求しようかという気になるんだろうか。
ならないような気がする。
私が「自殺したら」と言わないのは、自殺って根っこは殺人と近い部分があると思うから。
知的障害や精神障害のある人の中には(一部の方ですが)他害行為のある人がいます。
これを厳しく叱責されたり抑制されたりして他人に手を出せなくなったら精神的に落ち着くかといえばそんなことはなくて、今度は自傷行為に走る人も少なくはない。
要するに自殺って「本当に殺したい何か」を殺す代わりの行為なんじゃないかって。
自殺する人が最後に何考えているかはその人にしかわからないんだろうけど、私には「夢十夜」の登場人物みたいな心象が近いように感じられたりもするわけであります。
で、GKB47・・・そんな無駄なことやってるから浪費って言われるんじゃない?