痛みについての余談レポート
- カテゴリ:日記
- 2012/06/19 18:48:55
「痛みについての後日談」について、我が雑談の盟友(厨二病っぽい二つ名が気に入ってきたので、定着を画策ちゅw)Oさん(仮称)から、レポートが送られてきました(。。ゴソゴソ
Oさん
「> 割と混同視しやすいですが、拷問は相手を痛めつけて恐怖心をあおるなら、SMはそこに信頼関係や遊び心を見出すのが面白味だそうです。
誰が何の玄人やねんw
とりま・・
拷問というのは相手から何かしらの情報を引き出す手段であって、それ自体が目的ではない-多分ww-。
そして、双方に信頼関係など生まれようはずもないし、生まれてはならないw
ということは、拷問というのは相手が嫌がることをすることになり、それは例えば本人の肉体に傷を負わす
ことであったり、精神に傷を負わすことであったりするはず。とくに精神のほうがたちが悪いと思えるのは、
相手の大事なもの、人を傷つけることによってダメージを与えることも含むわけですから、これはなかなか
回復するのが難しい。場合によっては精神崩壊を招いて取り返しがつかない-拷問吏としては失格-ことに
なりかねない話です。
そうして自白を強要してことを有利に運ぼうという、げに恐ろしき破壊手段でございます。
いっぽう、SMだって肉体精神の両方で追い詰めて「いやぁ~んもうやめてぇ~~」をするじゃないかという
趣旨の発言もあるかと思いますが、それを通り過ぎると「うふぅ~んもっとぉ~~」になるところが拷問と
の大きな違いといいますか・・。
その行為に信頼関係を見出すのではなくて、信頼関係があるからこそSMが成り立つのだと思う所存。少なく
とも、MからSへの信頼がなければSMは成立しないのだと考えます。
Mの立場で考えれば、自分が拘束された状態でことをなすわけですから、何をされても反撃できないという、
非常に弱い立場に自分を追い込むわけです。そのうえで、肉体的はおろか精神的にも追い詰められるわけです
から、相手が最後の一線を越えないという一種の安心感をともなっていなければやってられません。行為が
終了した時点で生涯残る傷など残されたのでは、日常生活に多大な支障を及ぼすことになりかねないからです。
ただし、その”行為”を重ねることによって責めに対する許容範囲が拡がることは当然ある話なので、以前だっ
たらダメージから回復できなかったかもしれない行為でも崩壊せずに耐えられるということはあってしかるべき
です。とはいえ、その許容範囲が常識を超えたところにまで昇華されてしまった人は、すでに精神崩壊があった
と見るべきなのかもしれませんが・・。
ではSの立場ではどうかというと、身動きが取れない相手を征服する快楽というのが一般的な感想になると
思います。ただし、相手が身動きを取れないということは、自分が行為のすべてを取り仕切らなければなら
ないということの証明にほかなりませんから、ずぼらな人にSは向きません。これが、Sにはサービス精神旺盛
な人が多いはずだと考える理由です。
SMにおけるSとは、相手のウィークポイントを把握したうえで、どの程度までならそれを攻めてもMが崩壊しない
で済むか、そのさじ加減を誤らずに行えてこその責めの立場です。熟練されたSであれば、絶妙なバランスを維持
したまま、Mを喜ばせることが容易に行えます。それは、人間の耐性についての深い造詣があって、経験則から
おのずと限界を導き出すことができるためです。逆に、未熟なSではあっさりと許容範囲を超えてしまい、その
あとには苦痛しか残っていないといった過ちを犯すことになりかねないのです。苦痛しか残らないSMは、すでに
SMではなくて拷問でしかないのです。
さて、先ほどSにはサービス精神の旺盛な人が多いはずだと書きました。ところが、これに当てはまらない人も
いると考えられるのがSMの怖いところです。無論のこと、拷問吏のことではありません。Sが拷問吏となった時点
で、それはSMではなくなるからです。では何のことかと言いますと、芸術としてのSMを追求する型のSはサービス
精神旺盛ではないと考えられるためです。
芸術としてのSMを追求しようとするSは、相手を人間とはみなしません。オブジェの1つという考え方をします。
もちろん、そこはSMの範疇ですから、相手を壊すようなことはしませんが、Mに快楽を与えることよりも、自己満足
のためのSMに主眼を置いているため、実(じつ)よりも形式美を重んじる傾向にあるのです。このようなSの場合、
Mとの間に緊密な信頼関係が存在しなくとも行為そのものは成立することができることになります-もちろんMの立場
になんら変化はないので、MからSへの信頼があってこその行為ですが-。
これらの考察により、拷問とSMは似て非なるものと考えるしだいです。
きょうじゅ~このレポートで点数もらえますかねぇ~
え?実験結果のデータが添付されてないから受け取れないって・・?
無理ですよぉ
こんなの実演したら両手が後ろに回っちゃいますから~
なんだったらきょうじゅが実演してデータ集めていただけますか?
取材に伺いますので(ぇ」
冬琉さん
「実演については、著者自身が受け手として取材する分にはいたって問題ない為却下w
後、娯楽面では需要がありそうなので、後日広報に載せておこう(ぁ」
参考リンク
冬琉さん、痛みについて考える
http://to-ru-diary.blog.so-net.ne.jp/2012-06-06
痛みについての後日談
http://to-ru-diary.blog.so-net.ne.jp/2012-06-11
実はそろそろほのぼのネタに走りたくなってきてたり(ぁ
んー真剣に考えてるかどうかは、自分でも疑問かな。
多分、saki・ω・)さんっぽく訳すなら、服をコーディネートしたり、料理をアレンジしたりみたいなノリが近いと思うよ。
要するに、遊びだから熱中できるみたいな?(--
なごみ.・。+さんへ
各所でこっそりとw
まぁ、芸術みたいな高尚なものかは疑問だけどねぇ(^^;
その代わり、「価値が無いなら見い出せば良いじゃない。」的な考え方のが好み♪
おかげで類友には事欠きませんw
私も1つの物事に真剣に考えれたらいいんですけど^^;
SM深い・・
Mが己の限界を超えるか精神崩壊するかのぎりぎりのところに快楽を見出だすのは、相手のウィークポイントをよく把握している職人(S)だけが成せる技・・!
SMは単純な性癖ではないことがよくわかりました。
冬琉さんの文章を読んでいると、SMがもはや芸能の域にも思えてしまう不思議。