求めているのは君じゃない。
- カテゴリ:パソコン/インターネット
- 2009/07/10 03:24:07
Androidの次はGoogle Chrome OSだそうだ。
どちらもOSとされているが、一般的なOSの概念とは少し違う。
また、Linuxのディストリビューションの一つとも捉えられがちだが、構造や構成からすればそれも違う。
カーネルにLinuxが使われているに過ぎない。
動いていてそこそこ枯れていて、フリーだから都合が良かっただけだ。
そんな末節はそこらでググって記事でも読めば解るので、本題。
実際のブロックダイアグラムを見れば解るのだけど、こういう抽象化って好きじゃない。
生産性、移植性、可搬性、運用効率などを考えれば、多くのことが抽象化されていた方が便利だ。
だが、それって多様性の排除のような気がしてならないんだよね。
どういう事が要求されているかと言えば、「その仕事がこなせれば誰でも良い」ということ。
ARMだろうと、x86だろうと、SHだろうと、MIPSだろうと、Powerコアだろうと、関係がない。
どういう事かと言えば、会社が求めているのは「君」じゃない。別に首を縦に振らなくても良いんだよ「代わりなんて幾らでも居るんだから」ってこと。
むしろ「誰でも良いんだよ君の代わりなんて」ってこと。「おまえの個性なんて興味ねぇよ」ってこと。「君が嫌なら君のことは捨てれば良いだけだよね」ってこと。
優れた物を持っている事じゃなくて、「最低限要求された効率と速度で処理できれば、後はどうでも良い」ということ。
x86系も実はいろんな実装があって、日本にもPC-98x1とか、FM-Townsなんて機種もあった。
でも、Windowsの、ドライバによるハードウェアの抽象化によって、「別にこれじゃなくても良く」なってしまい、結果として消えた。
誰が担っても良いことが、逆に、じゃ、同じ奴で良いよねっていう方向に動いた。量産効果を考えればまぁ、妥当な判断だけど。
別に懐古主義でハードウェアべったりなコードを書けとは言わない。
でも、ハードウェアも、人が作った物で、其処には思想やアイディアが詰まっている。ハードウェアが抽象化されるって事は、それらが見えなくなるって事でもあるし、そんな作り手がこそこそ隠れてるようなものが面白いんだろうか?
特殊な機能があっても、移植性に難があればそれらは使われることがなく、ただそこらのプロセッサとして、たとえ処理が不向きだろうと効率の悪いコードを食わされて黙々動くことになるわけだ。
多くの場合、それは「値段」とか、「消費電力」であって、そいつの個性ではなかったりするわけだ。
他人事だとおもうか?人間だって似たような物だ。
選ばれる理由が「優秀だから」とか「適性があるから」じゃなくて「おまえだったら給料安くしても飼い殺しの使い捨てで良いと思ったから」なわけだよ。
幸い物にはココロなんて無い。
でも、作ったのは人間だったりするわけだ。
ほかの人間が作った物をそういう扱いをする人間の他人の扱いなんてしれてるよね。
個性?本当はそんなもんどーでもいいんだよねw
それらの個体差を除いた平均値だけが重要だったりするわけだ。
何となく世間の中にもそういうのを見る気がして何となくうんざり。
そして、多くの人は上っ面だけの個性重視だの、自由だのに騙されて気がつきもしない。むしろ自由を叫びながら隣の奴と同じ格好を好んでして、同じ物をみて、同じ物に笑うわけだ。それがどんなに面白くなくても。
良く思い出してみるといいw求められてるのは誰だ?
別に誰でも良いんじゃないのか?きれい事を声高に言う奴ほど実はその傾向が強かったりなw
まぁ、どーでもいいか。いや、個人の資質に特化された代わりの居ない集団なんてリスクが大きすぎて間抜けだけどね。
謝っていただく筋合いにはなさそうですし、どちらかといえば、よーわからん「文章のような物」を置いておいたが為に読もうとする無駄な労を費やされたことに謝るべきはこちらなのかもしれません。
高級言語ではなく、アセンブラ等で小さい物でも幾つかの環境で書いてみると解るんじゃないかと思います。
其処には、きちんと設計の思想があって、作った人の考えが透けて見えます。
興味がなければもしかすると一生ふれることも考えることも無いことです。
まぁ、奴隷の顔は知らなくても良いって事ですかねw
抽象化されたプラットホームでは動作を規定することは簡単ですが、実際に実行するハードウェアや、その設計者が見えない場所にあり、直接的な制御が制限されます。
「そういうことになっている」所に命令を投げ込めば「それが実行される」だけで、誰がどうやってどんな風に実行しているかは見えないわけです。
もちろん、その表面として見える部分にある思想や設計の意図は見えるわけですが、その先が遮蔽されてるんですよね。
読ませるほどの中身が本人にないんできちんと構文、推敲するなんて無駄なこと。
掃きだめであって、主張ではないことだけ理解できていれば必要充分です。
100コイン転がってくりゃ別になんでもいいんですよw
何度か書いていますが、コメント、訪問の強要をする意志はないです。
思うところがなければ書かなければいいし、何かを思うだけの出力は自分にはないってそれだけのはなし。
何かを解らせたいと思っていて齟齬があるのならがんばって推敲しないといけませんがね。
そもそも、気にすることは必要が無く、何も考えない方が生きる上では幸せなんですよw
書かれていることはね。
良いことをしたら死んで極楽行けるとか、がんばれば良いことがあるとか、そういうきれい事と嘘っぱちをアホみたいに信じてへらへら生きてる方が楽で幸せです。
アプリとOS間のやりとり?でしょうか?<自信ないですが。
ん、いつでも、どこでも、均一なものを、提供するのが、グループ、チェーン店の、役割だったし。
それが、ブランドの品質保証になってたと思う。
とか、いろいろ、その言わんとすることが、抽象的であるため、その本来の求めてることから、
離れたものに飛んで行ってしまいがちになりますね。
そこで、たとえをだすと、またそこに読み違いが起きて、ますます、収まりがつかなくなってしまう。
まあ、それが面白いと言えば、そうなりますけどね。
思わぬ反響が来るってね。
あ、「求めているのは君じゃない。」って、オレのこと?失礼しました(^^)。
まぁ、選択という意味では似たような物か。
どちらかといえば、そのアプリケーションが回りくどく動作することが美しくないって話をしてるわけですが。
SoundConverterというソフトなんですけど、ファイル形式の変換さえしてくれればこのソフトにこだわる意味はないですし、他に自分で扱いやすいのがあれば当然そっち使います。
Linuxを使ってるからその上で動くのを選ぶしかないけど、Windows使ってたらSoundConverterさんに用はないです。
ここでこれやってくれれば誰でもいいってのはわかります。
該当するOSではアプリケーションが仮想マシンの上で動くので、「誰に」が欠けているということ。
言ってしまえば、中国人と、日本人と、イタリア人が居て、全員英語話せと。そういうこと。
誰もが英語を母語のように扱えるわけではないので、そこにはオーバーヘッドがあり、且つ、そのネイティヴな言語ならではの表現や、単語があっても、それが上の例での共通語である英語には無いから使うなと。
そんな感じ。そして場合によってはえらく回りくどかったり、英語が苦手だからえーとと考えはじめて効率悪いのにってこと。
同じ指示をだすのであっても、相手には文化的、歴史的、経験則的な背景があるにもかかわらず、理解をせずに共用語で無造作に指示を投げる様が愉快じゃないということ。
「誰に」頼むのか、「どんな奴に」頼むのかすら考慮されないのは薄ら寒いということ。
誰にでも出来ることだろうと、相手のツラくらい見える距離で話せよってこと。「誰に」頼むかって重要だと思うのだけどね。投げっぱなしみたいのが嫌い。
誰に向かっても落ち込んでりゃ判で押したように「がんばれ、あけない夜はない」で元気になる訳じゃねぇって事。
届く言葉と、届きやすい言葉、届きにくい言葉があるにもかかわらず、公約数的な会話が楽しいか?ってこと。
転じて、個性だの、自由だのいうくせに、多様性の価値を認識しないとか、「誰がしても良いが同じではない」という事や、その差異は場合によっては、最適化に寄与するってことを無視しながら、そういう個体差を認めますエヘエヘみたいなきれい事って薄ら寒くね?って話。
均質な物やほかと同じが良いならそういえとw
似たような物が多くの違う形で実装されているのには相応の理由がある。
「何故」そうしたのかがおもしろいのであって、おまえの意見は聞いてない書いて有るとおりにやれってのは多様性の否定だなぁってこと。で、相手が誰でも同じ結果ってつまんねぇなってこと。
大事なのは「唯一無二であること」じゃなくて、「違う」事を認識することと、同じではないということの価値を捨てるのはどーなんだろってこと。
そう解っているのかいないのか
自分がいなかったら世の中終わるんじゃないかってほどの人がいるな~。
あまりにそれが強く表面化する人をみるとちょっとヒクね。
基本的にパフォーマンスを絞り出すために従来は生産性、可用性という面で妥協してあの形になっていたという面は多々あります。
日本ではそう簡単には移行「出来ない」でしょうね。誰かが余程がんばらないと。
ただ、レイヤーを深くして、分業して、いろんな事を非効率的で有耶無耶にしているようでなんか気分が悪いんですよ。
実際問題として吐き出されているコードも、最適化された物ではなく、とりあえず動くというものが多いわけで、それは彼の為に書かれた物ではなく、誰がやっても良い仕事として、受け取る手順書でしかない。
目的を達成するための手段としては間違っていないけど、既に言葉としては死んでる気がする。
「誰に」というところがどんどん消えていくんだよね。
相手が違えば、言葉は表現が変わってしかるべき。
そんな彩りも行間も無い言葉なんて面白くも何ともない。
必要のある多層化は否定しないのだけど、作業量に対する規模としてもなんかおかしいことが多いようにも思ったりもする。
テンプレートで反応すればいいんだろうか?それって生きてると言えるのかねぇ?
言語だけが言葉じゃなくて、人はいろんな物で表現をするわけだけど、それがどんどん無機的になっていってつまらない。
そのくせ、多様性だの個性だの語るってどーなんだろう。同じ事の方が安心する癖にw
という不満の募る毎日。
結局平均的なところに収束しようとするのなら別に個性も自由もいらないんじゃないかとも。
別に無駄に諍いを起こせとは思わないけど、多様性ってのはそのときに依存している何かの制度疲労とか、機能不全が発生したときのバックアップになる物で、何でもかんでも平均的なところに収束していくのは危険な気がするのだよね。
世界に一つだけの花がどーとかって薄ら寒い歌が流行ってたこともあるけども、「唯一無二」ってことは責任も役割も大きく、実はレールの上で規格化されることよりも大変で茨の道だって事に気がつきもしないでへらへら笑いながら歌うとかあり得ない。
多様性を容認する事はすばらしーとか言いながら作ってるのは画一化された社会ってどーなんだろ。
勤め人が、歯車やねじなのは仕方がないんだけど、明らかに形が違うのに適切な場所にはめるより分けすらサボるのはどーかとおもうのだよなぁ。
ブラウザが売ってないのと似てるかも。
あたしは、大昔Netscapeを電気屋さんで箱で買ったよ。
フロッピーが何枚か入ってました。
いい思い出w
…グッと来ましたね、この言葉。
勤め人の殆どは駒の一つでしかありませんよね。代わりは掃いて捨てるほどいるんです。
同じ仕事を如何に安いコストで仕上げてくれるか…で評価されてるのでしょうか?