技術の進歩が職業病の元ではある
- カテゴリ:音楽
- 2012/10/08 17:08:54
今日はもう、ブログ書いたんだけど。良いネタだと思ったので、もう一つ。
>コンサートとかライブのあの大音響って感覚的に「騒音」で「音楽」じゃない。フルオーケストラ辺りが「音楽」として楽しめる音量の上限なんだけど。
フル・オーケストラのフォルテは充分物理的に辛いと思う。 コンサートやライブの大音響ってのはPA技術発達のお蔭なんだけども、副作用も大きいですよね。ミュージシャンの難聴の原因はほとんど大音響のせいなんだから。
ミュージシャンは避けられない? 相次ぐ聴力障害の告白と苦悩
- サイゾーウーマン(2012年10月8日09時00分)
おまけの話
>「ジジイはどうせ高い音きこえねぇじゃん」、「何を捕らえてポエムみたいなことほざいてんの?」って思うわけです。
僕も若い時にでかい音聴きすぎて、右耳は人間ドックで赤紙が来るほど、高音の聴力落ちてる。orz 初めてこの事実を知った時に、がっくりきたもんだが。まったく聴力に問題のない人間と比べても、楽器の聴き比べなんかは僕の方がだいぶうまい現実がある。
同じ演奏者が違うフルートを使って演奏したときに、一般人の場合は、聴力に問題がなくても、まったく聴き分けできないことが多い。僕の場合は近視なので目で見てフルートの違いが判らんくても、きちんと聴き分けできる。これがこの前書いてた練度の違い。如何に演奏者の演奏に慣れ親しんでるか、とか、同じ楽譜でもフルート一本一本音が違うことを当たり前に経験してる経験量の違いだと思う。
何を捕らえてるのかと言うと、良く判らない。w 一つ言えることは、人間ドックの聴力検査は、マイク、スピーカー、アンプなどの音響機器の周波数特性の検査と全く同じ方法で、純粋なサイン波を定常的に流した時の反応を見てるって事。
そして、音響機器においてはこの方法で測定した周波数特性がまったく同じであっても、機器が違うと実際に出てくる音が全然違うことは、何十年も前から議論されてる。つまり、周波数特性は一つの物差しではあるけども、それが音楽的能力には必ずしも直結していないのだな。それじゃあ、何が大切なのかって事で、過渡特性とか、スループットとか、群遅延特性とか、位相特性とか、色んなものが取りざたされて来たんだけども、未だに決定打が出ていない。
という状況なので、一素人が理論的に正しいことを言うとか期待しちゃいかん。w まだ正しい理論なんてできてないんだから。
最近は若くてもちゃんと知識が聞けるのですが、若い奴が言うこと聞くかは本人次第だからなー。
一度悪くなったものはいくら訓練しても二度戻らないそうな。シクシク
そういえば随分昔に「ヘッドホン難聴」というのが社会問題になりましたが、今は改善されてるのかな…?
「官能評価しか出来ない問題」は音質評価に限らず、ありとあらゆる芸術分野、絵画、彫刻、文学、写真、グルメに至るまで存在してる。聴覚と同じく、味覚は大人より子供の方が敏感だけど、やはり練度の違いでシェフの人の方が遥かに味の違いが判ってしまう。これに対して聴覚と同じ文句が出ないのは、まだ味覚の原理が良く判ってないから。
グルメや絵画に対して、訳の分からないことを言っても、オカルトと呼ばれず。何故、スピリチュアルやオーディオ関係だけがオカルトと呼ばれるかと言うと、物理法則が適用出来る数少ない分野だからこそでしょうな~。世の中物理法則に敬意を払わないトンデモさんが星の数ほど居るのは、日々思い知らされてるわけで。必ずしもオーディオ業界だけがトンデモさんの比率が多いわけではないと思うよ。そう思わん?
グルメではなくて、健康食品の世界では「身体にいい水」マイナスイオン水、オメガウォーター、タキオンウォーター、ホメオパシー、etc... と猛威を振るってんだから、オーディオに比べたら遥かに罪は重いと思うんだけどなー。w
パイプオルガンだって、本物のはちょっと円盤に焼かれたのとは別物の迫力ですし。
ただ、増幅しすぎるのは、後ろの人にまで聞こえる以上の音量すぎやしないかと思うのですよ。
っていうか、「音楽」を楽しむなら、入力をオーバーフローさせてごまかすって、そりゃアーティストを信じてないにもほどがあるんじゃないかと思うのですがねぇ。
優れたアーティストは、大音響なんかじゃなくたって、説得力のあるパフォーマンスするでしょうし、そもそも好きで集まる人々に、過剰なことをする必要があるのか?っていうと首を傾げてしまうのだけどなぁ。ちゃんと表現が届く音響があれば、それ以上は蛇足じゃないかと。
基本的にいろんなものが「ない」とも言ってないんです。自称耳のいい人がブラインドテストで同じ傾向、結果を出せるなら、それは「観測からもれている何か」を示してるわけですから、そこで初めて、「で、これってなに?」って話になるのですよ。
「可聴範囲」での「違い」は認識できて当然なので、楽器や奏者の違いは「波形が違う」のでわかることはおかしくないです。が、じゃあ、聞こえてない部分を含めた評価を良し悪しで語るときにそのフィルタのかかった耳は正しいのか?というと疑問符がつくのですよ。上のほう切り離せば美しい音でも、蚊の鳴くような不愉快な音を多分に含むなんて音だってありえるんですから。聞こえない人には気がつかない。でも聞こえる人に不快なら、それはいい音なのか?だから「聞こえない範囲があるのに良し悪しを断じる」のは「傲慢だ」と思いますし、そこに正当性があるとは思えんのです。
機械などで計測できないのなら、人の耳に頼った判別だって、出来るわけですが、認識精度すら自己申告では話にならんし、構造上「あってはいけない」違いが「違う」っていい始めると、そりゃもう設計者に対する暴言に近い。
お友達が集まって「こうだよね?そうだそうだ」なんて、薬だったらプラシーボ効果で実効性のない薬があふれるようなざまとおなじなんですよ。正しいか?ではない。「正しくあろうと少しでもしたか?」が問題なのです。苦手だからでノイズが嫌いで原音大好きの癖に垂れ流すのがノイズだけって悪い冗談にもほどがあると思うのですがどうでしょう?