Nicotto Town


観光列車から、日々利用の乗り物まで


大浦突撃隊 特殊潜航艇基地(Q基地)


http://blog.goo.ne.jp/yoshi0749のブログを覗いてね。

昭和19年4月に海軍水陸戦車用の「Q基地」開設された。その後戦車訓練が終了すると、海を隔てた特殊潜航艇用の「P基地」の訓練員を収容し、「大浦突撃隊 大迫支隊」と改称された。

第10特攻戦隊
蛟龍隊、第10特攻戦隊は、大日本帝国海軍が本土決戦に備えて編成した特攻用潜水艇の戦隊の一つである。他の特攻戦隊が鎮守府に属して沿岸防御を担当したのと異なり、連合艦隊に属し、沿岸防御の前段階にあたる沖合防御や豊後水道の防御を担当することが予定された。

第10特攻戦隊は、1945年(昭和20年)3月20日に編成された。沖合での機動特攻用と言うことで、比較的に高性能な特殊潜航艇の蛟龍を主要装備とし、ほかに旗艦用の輸送潜水艦「波109」「波106」などを有した。当初は「波109」と第101突撃隊だけの戦力だったが、次第に大浦突撃隊や小豆島突撃隊の編入などで増強された。

特殊潜航艇(とくしゅせんこうてい)とは、敵海軍の泊地襲撃や、工作員潜入などに使われる軍用潜水艇・小型潜水艦。ミゼット・サブマリン(Midget submarine)とも呼ばれる。日本の甲標的をはじめとして、世界各国で製造・運用された。

日本の甲標的は、1941年の開戦時における真珠湾攻撃や1942年のシドニー港攻撃やディエゴ・スアレス港の攻撃等に投入された。ディエゴ・スアレスにおいて戦艦ラミリーズを大破、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(6,993トン)を撃沈した。またガダルカナルの作戦において米輸送艦アルチバ(USS Alchiba, AK-23)、米輸送艦マジャバ(USS Majaba, AG-43)など数隻を撃破した。 その他は真珠湾攻撃時の戦果も不詳であり、大型艦船の撃破は無きに等しかった。

 

機動艇発着場の突堤:ブロック片

 

呉地方総監香取顯男海将揮豪の碑
碑文より引用
大東亜戰争方ニ酣ニ敵ノ反攻頓ニ熾烈ヲ加フル昭和十九年四月、海軍ハ此処ニ機密訓練基地ヲ設ケ、對岸大浦﨑ノ特殊潜航艇P基地ニ呼應シテQ基地ト稱ス、同年七月第一特別基地隊ノ編成ナルヤソノ麾下ニ入リ、二十年三月大浦突撃隊大迫支隊ト改稱、決死報國ノ將兵二千餘を聚ム、處ハ是碧河清冽ノ地、隊員維悉殉忠ノ士、朔風炎熱ヲ冒シ、敵必滅ノ戰技ヲ練リ、勇躍出撃セル若櫻亦尠カラス、然ルニ同年八月忽トシテ終戰ノ詔ヲ拝シ、整然隊ヲ解ク、爾来三十餘星霜、茲ニ往時ヲ追懐シ銘碑ヲ刻シテ後昆ニ傳フ


 

建物はいくつかは戦時中のものを利用しているとの事。又、山側には幾つか避難壕などが残っているらしい。

 

1931年(昭和6年)11月、艦政本部第一部第二課では日本独自の兵器を研究開発するためにさまざまなアイデアを検討した。当時、ワシントン・ロンドン条約により、列強各国海軍の戦力保有には厳しい上限が設けられていた。日本の仮想敵の一つであった米国海軍と比較し、主力艦の戦力差は大きく、仮に戦えば日本が敗北する恐れは非常に大きかった。さらにアメリカなどの列強との経済力、生産力の格差による海軍戦力の制限を補い、有事の際に有利に事を進める必要があった。艦政本部はこれを踏まえ、主力艦同士の決戦に投入し、敵戦力を漸減できる戦力を新規に開発しようと試みた。
検討されたアイデアの中に、横尾敬義予備海軍大佐の提案した「魚雷肉攻案」があった。これは魚雷に人間が乗って誘導し、確実に命中させるというものであった。この提案は課員の強い興味を集めたが、当時の海軍には必死兵器を採用しないという伝統があったことから発想には変更が加えられ、小型の潜航艇から魚雷を発射するものとなった。同年12月、艦政本部第一部第二課長に岸本鹿子治大佐が着任し、潜航艇の開発が決定された。基礎設計は朝熊利英造兵中佐による。造兵中佐自身はこの兵器が成立するものかどうか疑念を抱いていたが設計に着手、1932年(昭和7年)6月には全長12mの模型が完成し、空技廠の水槽実験室を用いて航行状態の水流の状況を調査した。この試験では、司令塔周りの水流が高速になるほど、渦流が船殻沿いに強く流れて推進器に悪影響を与えることがわかり、結果を踏まえて設計が変更された。


1932年(昭和7年)に提案された設計案では、全長25m、排水量42t、水中最高速力30ノットを発揮し航続力は50分、兵装は53cm魚雷2本を装備すること、が決定された。これをたたき台としてさらに3つの設計案が作られた。
第一案は動力を電池のみとし、水中速力30ノットを発揮し60kmを行動できること、水上速力は25ノットを発揮し50kmを行動できること。
第二案はディーゼルエンジンのみを搭載し、水中速力30ノットを発揮し500海里(926km)を行動できること、水上速力25ノットを発揮し300海里(556km)を行動できること。
第三案は電池とディーゼルエンジンを併用し、水中速力20ノットを発揮し30kmを行動できること、水上速力15ノットを発揮し150海里(278km)を行動できること。
上述の数字は艦隊決戦を前提として決定された。米国戦艦の速度が20ノットと想定され、これに対して攻撃を加えるために1.5倍の速度である30ノットが要求された。また航続距離50kmは戦艦主砲での砲戦距離を基準として求めている。当時の日本海軍は小型の潜水艇を製造するための高性能の蓄電池、小型電動機、耐圧船殻などに優れた技術を持っており、こうした兵器の実現化は可能だった。
第一案は製造価格が安く、1隻あたり15万円で建造可能とされた。実際には価格は上がり、1942年当時では30万円とされた。計画は高崎武雄大佐から伏見宮博恭軍令部総長へ直接持ち込まれ、この後、岡田啓介海軍大臣へ説明が行われた。軍令部総長は体当たり兵器ではないことを確認して了解し、海軍大臣は1隻の建造費が15万円程度と安価であることから製作を許可した。設計主務は艦政本部の朝熊利英造兵中佐が勤め、ほか、魚雷と造船の技術士官が参加した。開発を推進した岸本鹿子治大佐は魚雷の権威であり、甲標的も潜水艦というよりは魚雷の性格が強いものとなった。また、潜水艦の設計関係者はこの開発に参加せず、後に甲標的を作戦運用する上で生じた問題の遠因となった。


この特殊潜航艇は「対潜爆撃標的」と称されて設計が開始され、3ヶ月で設計完了すると呉海軍工廠魚雷実験部において試作が行われた。1933年(昭和8年)に完成した第一次試作艇は広島県尾道市沖で耐圧試験を行ったが、水深100mで魚雷発射管室内の浮力タンクが圧壊した。同年6月には、蓄電池から生じる水素ガスを吸入するための装置を陸上で試験した。甲標的内部での水素、炭酸ガス濃度を調査したほか、通風、密閉、汚水ポンプが試験された。次に艇の重心を測定し、安定度を検査、動揺周期を確認した。無人海上航走試験では24.85ノットを記録した。10月3日から有人航走試験が開始され、2名が搭乗し、瀬戸内海、また高知県の外洋上で試験を行った。1934年(昭和9年)12月、実験は終了した。この実験期間中、特殊潜航艇は「A標的」と呼ばれた。試験終了後、試作艇は秘密兵器として厳重に保管された。

 

 




Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.