サリヴァン先生(アン・サリヴァン)
- カテゴリ:日記
- 2013/02/18 03:07:06
なりきりメルちゃんシリーズ 今回の登場は サリヴァン先生こと、アン・サリヴァン女史
サリヴァン先生って誰や〰(なんで関西弁?)と、いう貴兄のために
ジョアンナ(アン)・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー (1886.4/14~1936.10/20)
ヘレン・ケラーの友人であり家庭教師でありました 日本ではサリヴァン先生の名で知られています
まさか、ヘレン・ケラーって誰や〰(なんでまたまた関西弁?)なんて人は居ない(と、おもいますが……)ですよね???
とにかく、ヘレン・ケラーは彼女のおかげで 目・耳・声の3重の身体障害を克服することができたのです
1866年4月14日 アンはマサチューセッツ州フィーディング・ヒルでアイルランド移民の農夫トマス・サリヴァンとアリス・クロージーの娘として産まれました 3歳の時に目の病気「トラコーマ」にかかり、9歳の時に母を亡くして結核によって身体が不自由になった弟のジミーと共にチュークスバリー救貧院へ入院。 弟はすぐに亡くなり、アン自身も目の病気の悪化により盲目となりました その病室で弟の死と、自らも盲目となったことでうつ状態になりすべての食事を拒否するようになりますが、その病院の看護婦から毎日のようにキリストの教えを説かれ、次第に心を開いていったとされています
キリスト教の信者となったアンはチャリティー州委員会議長 フランク・サンボーン に学校に行きたいと訴え
1880年10月 14歳の時にマサチューセッツ州ウォータータウンにある パーキンス盲学校に入学 訓練と数度にわたる手術のおかげである程度の視力を回復しましたが、光に弱く、常にサングラスをかけていたと言われています
1886年には優秀な成績で(首席であったとされています)学校を卒業 卒業式では卒業生総代としてスピーチを行いました
また、在学中には視覚・聴覚の障害を克服した ローラ・ブリッジマンと出会い親友となっています
この出会いと自分自身の盲目の経験がその後の ヘレン・ケラーの教育に生かされたことは想像に難くありません
聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られている) が、ケラー家にパーキンス盲学校を紹介したことから アンがヘレン・ケラーの家庭教師をすることになりました
1887年3月3日 アンはヘレン・ケラーの家庭教師として教え始め、その後、パーキン協会、ケンブリッジの女子学生対象の大学への進学を援助して
1900年 ついにヘレン・ケラーはラドクリフ大学(ハーバード大学の女子学部)へ入学することができたのです
これを読んでいるすべての健常者の諸君! 五体満足で勉強できること、仕事ができること、日々の生活がおくれる事に感謝したまえョ\_(◕。◕✿)ハイここ重要!!
その後も、ヘレンの旅行に際してや、様々な講演活動に同伴するなど、生涯ヘレン・ケラーの教師であり、良き友人として支援し続けました
1905年5月2日 11歳年下のジョン・アルバート・メイシー (ハーバード大学講師でヘレン・ケラーの自叙伝のエディター) と結婚
1914年ころには別居状態となりますが1932年ジョンの死まで正式な離婚はしませんでした
そして……
1936年10月20日 ニューヨークのフォレストヒルズでその生涯を閉じました 亨年 70歳
PS ヘレン・ケラーの生涯を綴った戯曲は邦題で「奇跡の人」とされており(映画にもなった) 奇跡の人とは ヘレン・ケラーの事であると日本では誤解している人が多いのですが、原題は 「The Miracle Worker」であり、アン・サリヴァン(サリヴァン先生)のことを指した言葉であります
ヘレン・ケラーが3重苦で有名ですが、それを導いた先生の偉業は凄いですよね。
ヘレンケラーの家庭教師だということは知っていたけれど
こういう過去があったことは知らなかった・・・
なるほど~。
ヘレンケラーの書籍では
イラストに必ずサリヴァン先生はサングラスかけているので
何故だろうと疑問がありましたが、
こういう意味合いだったのですね・・・
さすがメルさんなりきってますね(#^.^#)v
でも、私から見れば二人とも「奇跡の人」ですよ^^
ウォーター・・・・・・感動的なシーンでした。
でも、身体障碍を克服したと言う事は凄いですね。私には真似出来ません。
こう言う偉い先生もいたのですね。
今回すごく勉強に成りました。ありがとうございます。