ひっどいなぁ…。
- カテゴリ:日記
- 2013/04/14 18:20:01
http://konozama.jp/amazon_devil/cat31/
個人blogで何を垂れ流しても最初から自己満足だからいいんだけどさ。
電子書籍とはいえ、「こんなもん売るのは詐欺」だろう。
多々出てくるフレーズ「Wikiにもかいてある」って時点で脳みそが腐っている。
世間の「興味がない人」が略称として使っているのは知ってるけど、周辺のエントリ見たら、関連する生業っぽい。
どれくらい間抜けかっていうと、HDDをハードと呼んだり、USBメモリをUSBって呼ぶくらいおかしい。それに何が?っていっててかまわないひとは、それでいい。
文脈がとおりさえすれば、「その人が知らないことがみっともなくない限り」は黙ってるからw
興味がない人がおかしいと感じないのはしょうがない。気がつくための素養がないからだし、必要のないことだからだ。
でも、「自分の生業に関係していること」にコノザマはありえない。
Wikiにも書いてある?どこかのまとめWikiだってWikiなんだがなw
情報源すらまともに記述できない昔語りの駄文はゴミだ。
そもそも、「Wikipedia」は通過点であって、直接的な情報源たりえない。「でたらめも書き込めるし、明日には中身が違う可能性もある」物だからだ。
大事なのはそこで示される、出典と、それを基準に書かれている事象で、出典がそもそもおかしなものならそこを軸に書かれることはゴミであるといえるし、出典がないのなら、「どこの馬の骨がほざいたかわからない噂話」である。
だから信用できない、役に立たないという奴もまた、「頭が悪い」。
その記述の根拠を出典によって補完することによって「必要ならば確認が取れる」わけで、そこで初めて、そういう事実が存在するということを認識できることになる。同時に、多くの人の目と手が入ることによって、正確さが維持されている。
紙の辞書は、出版前に確認し「変わらないこと」が大事で、Webのそれは「変わり続けること」が大事だ。誰もメンテナンスせず、確認されない記事は後者では死ぬ。
その特性を理解し、活用するのが「知恵」だ。使えないのではなく使う能力があるかは使う者にゆだねられる。「何かを欠いている」なら「補えばいい」ということで、「単体で用を成さないものは駄目」というのは無能の証でもある。
以上のことから、「Wikipediaに書いてある」は絶対に根拠にはならない。
それは明日除去され、消えるかもしれない記述であり、書かれていただけではそれは裏づけのない誰かの呟きだからだ。「見たときには書いてあった」は意味を持たない。
目的と特性を考えて用途を選べない時点でサルでザルなんだ。
という時点でそもそも思考とか、判断ってものを疑うわけだが、中身もまぁ酷い。
blogとしては許される。ただの自己満足の垂れ流しだから。
でも、売り物とか、出版となれば、この書き散らかして無根拠な駄文の羅列は論外だ。
事実の誤認や思い込み、記憶違いが山ほどある。
自分が関ったことのある何かって、構造的な部分では忘れることって自分はあまりないんだけど、根幹からおかしいような記述が山ほどある。
うん。「知らないものは、知らないといえばいい」と思うんだ。それがいやなら「きちんと調べて根拠を示し、つづればいい」と思うんだ。
売り物じゃないなら、自称マニアなジジイの戯言で話は終わる。
残念ながらこんなものが売れている。
ただ、その価値はレビューにあるように「その時間を過ごした人たちがその時代を思い出して懐かしむアイテム」ということだ。中身の正当性や、文章に何かがあるのではなく、「ネタ」が実は売れている理由や、訴求力だ。帯もまた、その詐欺に一役買っている。
あの帯からすると、多分自費出版ってわけでもないんだろうが、「こんなゴミ」なら青空文庫からいろいろなものを読み漁ったほうが得るものはたくさんある。
少なくとも中身はまともだw
https://twitter.com/hmiyabi
自己紹介で文章の仕事があったらくれだとさ。
とても分厚くて無様な面の皮をしている。
論理の破綻や相関関係のおかしさから技術ライターは無理。
話の飛躍や、まとまりのなさから、文才もない。
同人作家や、ライトノベル作家ですらこれは怒っていい。
これが物書きという生業に対する侮辱以外のなんだというのだろうね。
ネタさえ選べば、今なら駄文でも売れますって?
それは普及させないためのネガティヴキャンペーンだろうよw