ものを書くってのは難しいもんですわね。
- カテゴリ:日記
- 2013/07/19 23:26:44
簡単なことを難しくいうのも、難しいことを難しいままいうのもまた無能だということなんだよね。
ただ、難しいことを簡単に語れることが優秀であるというのは、多くの場合、その人が、その事象を理解し、相手の理解度を推測し、相手が届く範囲の言葉で、「必要最低限なこと」を再構築して伝える力があるということなのだと思う。
じゃ、わからんことをいうのが本当に馬鹿かといえば、聞いてる方が読み書き不自由なんじゃないか?という構文解析能力と読解力なら、その限りでもないわけで、「難しいことをわかった気にさせるだけ」というのは、頭がいいのではなくただのペテン師である。
あと、面倒見がいい人ほど「きちんと理解させようとして」相手の頭では疑問符がクルクル回るのは良く見る光景だ。
広告の効果がわかりやすいのも似非科学が蔓延するのも「わかった気にさせられているから」で、実際には多くの場合受け手は検証してないんだから、その妥当性は読み手、受け取り手自身によっては証明されていないのだよね。どちらかといえば、限りなくペテンに近い。
普通に口語で書くなら、使わない語彙を引っ張り出してくるとか、やたら読み仮名を書くとか、そういうのは平易でも読みやすくもないだろう。「振り仮名なんていらない」記述が平易なのであって。英語の発音にこだわらなければ?こだわるなら、原語で書けばいいだろw馬鹿らしいw構成する音が違う言語で無理やり近い音を記述することより、文章は語彙がきちんと伝達されることに意味がある。
少なくとも「書くために、検証、確認というプロセス」を踏んだとは思えないできだから、やっぱり記事としては駄目だよね。
他人の言ったことのうわべだけの継ぎ接ぎは言葉遊びで理解じゃない。
自分以外の誰かを本当に念頭においているのなら、検索性、可搬性を考慮して書く必要があって、本当に言ってることが正しいのか、別の視点から自分で調べ、検証し、そのプロセスが自分の糧になるんだろうに。
ただ、妄言を垂れ流すだけでは、誰の糧にもならないのだけど…枯れ木も山の賑わいとするかは、難しいところだな。
とまぁ、流石にでたらめが混ざってきてたので、高校生の講座にコメントしたら無言で削除対応。
別にいいけど、それ晒すの、恥晒すのと大差ないんだがな。
うん、馬鹿でもわかる基本からうそって、成長したら、あの似非SEみたいになるんだろうかw
あの人に突っ込まれる時点でまぁ終わってるんだがw
タイトルには「高度な」講座?丁度同じくらいの年齢の時に書いたと思われるタイムスタンプのアセンブラのソースコードが見つかってるので、それくらいのことはできたはずなんだが。
物事には相関関係があって、効果にはそれを生むロジックがある。
そのロジックのコストを結果が下回れば、効果がないし、限定的に効果のある仕組みもある。
修正されることもなく、コメントは削除なんだから、まぁ、その程度の器なんだよな。
いや、恥を晒すのは本人なんだからかまわんけどもさ。
流石に、単位をkmをk.m.とは普通は書くまい。
「自分が何を書いているのか」を理解していれば、やたらと「それっぽいけど誤記」な書き方はしないだろうに。
企業からの返信とかでも、丁寧なつもりなんだろうが、思いっきり口語で書かれた文面で「幸甚でございます」とか書かれてると、慇懃無礼を感じる事もある。
言葉には纏う空気もあって、キメラみたいな文章は書きなれていないことを露呈するだけだ。自分のものじゃない言葉は、意外とばれてるものなのだが、自分のものになっていないからこそ、バレることに気がつくことができないのかもしれませんな。
テンプレートや上っ面より大事なものあると思うよ?
少なくとも、「検証不可能」なので、私はその発言を肯定することも事実とすることも不可能です。
私がその事象を引き「だから本は信用できないのだ」というのは無根拠な発言になるのは自明です。
同時に、それが伝聞であり、理解や思考を伴っていないのなら「あなたが誰かの仕事を貶める根拠としても」不適切です。
「確定していない」は真でも、「根拠足りえることを用いて、他者の仕事を批判したは」、偽です。ということで、「おかしい」といってるのですよ。「正しくないことが載っている」は「断言されています」ので。その根拠が濁されていても、ここが断言されていれば話は大差がありませんし、むしろ不確定なことを根拠に断定するのは無思慮に事実じゃないことを信じ込んで断定するより悪質です。
「ネットで調べられる」と「ベンダに質問する」も違いますよね?公式のフォーラムでも大差はありませんが。
ですから、この時点で説明に齟齬があります。個別対応を要求しなければ、得られない情報であったなら、「しらべりゃわかる」は事実ではないです。事後に公開されていたなら、時系列としても説明は事実と異なります。
出版には時間がかかるのですから、後から出てきた事象なら、不可抗力だった可能性もあります。そういうことを加味すると、少なくともあの文面に私が同調することは無責任だと思うのですよ。
こうやって、無根拠な信頼と、無責任でデマゴギーは生まれ、暴れるのです。
教科書ですら、間違っていることがあるわけですが、その時点で認識、肯定できることが書かれる努力、作業が行われていれば、これは不可抗力で、怠惰の結果とは思いませんし、同一視することは難しいと思うのですよ。
それでも、論理として破綻していたり、確認のプロセスで洗い出せそうなものが放置されているのはおかしいと思いますけどね。
3000円くらいのPCの本にQ&Aとして記載されていたので買って帰ったら・・・
返信帰ってきてて(;一_一)本の内容が間違っていた事発覚w
因みに、「違うのだ」と言う内容を説明されたが・・・私には理解できなかった
と、言う事で・・・
自分で理解できない事を確定する事は、私的にルール違反なので「らしき事」で茶を濁しました
インヘリタンスとかポリモーフィズムとか・・・後、何か横文字(゜-゜;)私には理解不能
JavaやC++・・・正直、意味分かって使っているわけではない状況
書き手の才能に依存するなら、編集なんて要らないんですけどね。
「ネットで調べられる間違ってる『らしき』」という時点で、書籍とその意見の質には大差がないです。そもそもその「ネット」がどこであるかにも寄ります。
個人のサイトは、多くの場合、劣化コピーですから、情報のソースがおかしければ、広まるデマゴギーも同じ傾向を持ちます。さて、「誰が間違っているのですか?」
検索したと「調べた」は違うんですよ。「知る」ということ「調べる」ということを良く考える必要があると思います。
「間違っている」ことを確認できていないなら、「未確認な状態で仕事をしていない」と批判するようなものですから、デマゴギーを撒き散らす人と、人としての程度に差はありません。少なくとも「確証、結論」をもって、「仕事をしていない」と根拠を明示して批判をするのなら、それは妥当性がありますが、気分で、「あいつら仕事してない」というのは言責をとる気がない卑怯な人間のすることで、只の名誉毀損です。
書籍が信頼されてきたのは、相応のコストがかかり、だから、相応の人が手がけ、出版されたものだからであって、著者や、出版社が信用できないならそれは紙ごみなのですよ。
Webの情報は「活字」の体裁で、古い人間は「活字だから」信用する傾向があります。
しかし、「誰が書いたのか」が確認できないなら「書かれている論理に正当性があるか」で判断をしないといけません。そんな「ガラクタ」は単品ではガラクタのままであって、検索に引っかかったものが正しいとは限らないことを認識できていないのなら道具の特性を理解できていないと白状しているだけです。
たとえば、「質問サイト」の回答なんてでたらめだらけです。「だれが」答えているのでしょうね?回答を思いついちゃったそこらの人と、評価をしてるのも質問した「そこらのひと」です。そこに正当性を担保するものはないんですよ。だから役に立たないと断じる事もまた、考えるということを知らない人だと思います。それらを複合的に収拾、精査すれば、出る答えもあります。
大事なのは「どう使うか」であり、「自分が知っていること、知らないことを良く考える」ことだと思います。
アタカも「本当にそうなんだよ」って顔して載ってますものね(;一_一)何が本当か分らんくなります