Nicotto Town



10月期小題「裂ける/奇跡」

「救世主よ、早くここから立ちましょう。グズグズしてたら追い付かれてしまいます」
軍が迫ってきた…殿の物見から報告を受けた族頭のルベンは、対岸に向かって座ったままのモーセに焦りの声で訴えた。早く入り江を迂回しようと言うのである。
対岸まではほんの100mほどしかないが、海水が東西に細長く河のように横たわっていて、身軽な者ならともかく、女子供、家畜や荷物まで抱えているのではとても渡る事などできない。たしかに迂回するしか手はないのである。
しかし、モーセは動かなかった。否、動けなかった。まして軍隊が追いかけてきたからには迂回してもすぐに追いつかれてしまうのは目に見えていた。
『これほど大勢の民を逃れさせるには海の道が啓くのを待つしかない』
実のところ、脱出者の人数が多すぎた事にモーセ自身が一番困惑していた。
だが、ルベンたちの焦る声を聞いているうちに逆に腹が据わり、黙ったままじっと風の音に耳をすませた。
モーセはこの入り江に東風が強く吹きつける時、対岸まで一筋の海の道ができる事を、過去に砂漠を旅した時に知っていたのである。

モーセがユダヤの民に独立を説き始めた頃からエジプト国内では赤潮、疫病、イナゴの襲来などの不幸な出来事が続けざまに起こった。モーセは、時を得たとばかりにユダヤのいち発言者としてエジプト王に訴えた。
『この不幸は我がユダヤの民を軽んじているエジプト国に対する神の怒りであり、怒りを鎮めたければ少しでも下層民たるユダヤ人を解放すべきである』と。
このモーセの言葉に突き動かされたエジプト王は、不幸続きで飢饉状態にあるエジプトの口減らし策として一部のユダヤ人たちの出国を認めたのである。

そもそもモーセは、初めから全てのユダヤの民を解放しようとは考えていなかった。下層民として貧しい生活を強いられている多くの同胞たちの地位や生活が少しでも向上できればと思っていただけである。だから彼自身、彼の建国思想に賛同した少数の者たちだけを連れてエジプトを出るつもりでいた。
また、「これは新しい国を創るための旅である。もちろん新しい土地に着くまでは長い旅となる。だから今の生活を守りたい者たちはここに残っても構いません。私は貴方たちに苦難を強いる者ではないのだから」と、何度も民に説き聞かせていたのである。
ところが、差別のない民族だけの国を創りたいと願うのは当然であり、下層階級で貧困にあえぐ多くの者たちほどその願いは強かった。そこに、政治に携わる部族の長ばかりが主権を握っている事に不満を持つ者たちまでモーセの思想に賛同したのである。そのため、モーセどころかファラオの予想を遥かに上回る大人数の民がエジプトを出る事になったのである。
あまりに大勢のユダヤ人が出国する事に驚いたファラオは、大勢の労働力を失う事によって国家が窮地に立たされる事になるとして急ぎユダヤの民を引き止めるために軍を発した。そして、ようやく紅海の端にある入り江で追いついたのである。
ファラオは、決してユダヤ人を迫害しようなどと考えて軍隊を送ったのではなかった。ただ、軍隊でなければ追いつけなかっただけだった。
だが、軍隊が追いかけてきた事にユダヤの民は怖れた。説得の使者だけなら彼らも怖れなかっただろうが、軍隊が追いかけてきたからにはただでは済まないと考えたのである。
特にこの出国の指導的立場にあったルベン、シメオン、レビ、ユダなど部族の次席の地位にいた者たちほど軍隊(支配者層)から受ける懲罰を怖れていた。それが焦りと不満の声としてモーセに向けられたのである。

陽が昇るほどに東風はどんどん強くなってきたが、まだ海の道は現れない。戻ってくる物見の報告もただ軍隊がどんどん近づいてくると言うものばかりである。
「救世主よ、あなたが動かなければ私の一族だけでも先に行きますぞ。どうして動かないのですか!」
ルベンの焦りは追われる身として当然の言葉であり、それは他の部族の代表者たちの声でもあった。
それでもモーセは海の道の事を話さなかった。たとえ話してもすぐに信じてはくれないだろうし、何よりモーセ自身が確実に海の道が現れると断言できなかったのである。
『もっと強い風になれ。砂粒が巻き上がるほどに』
モーセは心の中で、ただこの言葉を繰り返すしかなかったのである。

最後の物見が戻って来た時、ついにルベンはモーセに向かって言い放った。
「このままじっとしていては我々はエジプトに連れ戻されるでしょう。そうなればこの大勢の民たちはもっと下層に落とされるでしょう。あなたが救世主であろうとなかろうともう我慢できません。私たちはすぐにここを立ちます」
ルベンがこう言ってモーセのそばから離れようとした時、それまでよりもはるかに強い東風が吹き始めた。
モーセは立ち上がって目の前の入り江に向かって歩き出すと、渚にひざを浸しながら手にした杖を海中に突き立て、両手で杖を握って俯きながら祈りの言葉を唱え始めた。
ルベンたちは、モーセが何をしようとしているのか全く理解できなかった。それも当然で、モーセはただこの風が強くなる事を神に祈るしかなかったのである。
モーセの祈りと共に、東風は音を鳴らして吹きつけるようになった。そのあまりの強さに、入り江の水は飛沫となって高く舞い上がり、渚に立っていたルベンたちの上に雨のように降り注ぎ始めた。
モーセが波に引き込まれると思ったルベンは、目を細めながら波打ち際のモーセに駆け寄った。
「ルベン、見なさい」
全身びしょ濡れのモーセは、顎を上げて対岸を見るように言った。そこにはモーセが跪いたところから対岸まで続く一筋の海の道が現れていた。
モーセは、愕然とするルベンの腕を取ると、「さあ、道は啓かれた。今すぐ民を対岸に渡しなさい」と穏やかな声でルベンと目を合わせた。
飛沫を避けるため砂浜まで下がっていたシメオン、レビ、ユダたちも、突然目の前に現れた道を見てただ驚くしかなかった。

「道ができたぞ。みんな、すぐに対岸へ渡るのだ。海が裂けたのだ。奇跡を踏みしめよ」
ルビンたちは奇跡を目の当たりにした興奮のまま、大声で叫びながら砂丘の上で待っていた民の間を駆け回った。

-おしまい-

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2014/11/15 06:18
BENクー様
御寄稿ありがとうございます。寄稿作品の転載先「小説家になろう!」において、50/(目標)40ポイントでした。以下は「小説家になろう!」に転載した作品にツイッターでリツイートを下さった方です。
(みうみ様より) https://twitter.com/EalielIi?cn=cmV0d2VldA%3D%3D&refsrc=email
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2014/11/04 22:55
臨場感のある描写で読み応えがありました^^
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2014/11/03 14:14
奇跡は、実は自然現象だったのですね!なんだか、とても納得がいきました
とても迫力があって、面白かったです(^ー^)
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2014/10/31 20:57
モーセとモーセを巡る人々
葛藤がいいと思いました
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2014/10/28 19:20
「裂ける」と言う小題でいろんな「裂けるもの」を考えてるうちに、『史上最大のものって何かな?』・・・でこれを選びました。
映画だと聖書に添ってファラオに追いつめられる中で奇跡が起こったように描かれてましたので、それではあまりに現実ばなれしていると思ったので、『これなら有り得るだろう』と考えてみました。
日本にも引き潮になると海の道ができる所があるので、きっとそんな場所があったんじゃないかと思ってたもんで。(^0^)
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2014/10/28 17:56
旧約聖書のハイライトシーンを巧みに描写
たいへん迫力のある演出だと感じました
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2014/10/28 00:26
有名な場面
まだ映画は観ていないですが…
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2014/10/27 20:48
プリンスオブエジプトー・ω・♪
臨場感あふれる描写に、すっごい昔の「十戒」って言う映画の一場面がくっきり思い出せました。
海かち割れシーンや、石版に言葉が刻まれるシーン。すごかったなぁ……
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2014/10/27 19:49
スペクタクルですね
切りとり箇所
盛り上がらせ方もいいです



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