Nicotto Town


ま、お茶でもどうぞ


鹿の王 感想・1(ネタバレ注意

 一人の作家の書いた作品を複数読んでいると、大体作家の書く傾向とテーマが同じことに気づく。私も書くからわかるが、書き手は生涯、同じことしか書けないものだ。それはどんな天才でも同じだ。

 上橋菜穂子はローズマリー・サトクリフの影響をとても強く受けた人で、この作品には特にそれが表れていた。
 サトクリフが書いたのは、いかなる時代でも普遍的に流れる人の営みと、変わらぬ人の心、そして民族間の争いである。
 なぜ人間は部族同士、国同士で争うのか。テロがなくならないのか。その理由を、経済とか文化の違いから答えを突き詰めるのではなく、上橋さんもサトクリフも、「人間がそうする理由」として大きく広い視野で描いている。
 鹿の王は、上橋さんが書いてきた作品の集大成だった。

 主人公の中年の男ヴァンは山岳民族で、飛鹿という跳躍力に優れた鹿を乗りこなす元戦士だった。民族間の争いで戦いに負け、岩塩抗の採取奴隷として酷使されていた。
 一生日の目を見ず死ぬのかというところに、黒い狼の集団が坑内に現れ、その場にいた人を噛んでゆく。その牙には黒狼熱という致死の病が潜んでいて、噛まれた人はみんな死んだが、ヴァンは生き残った。
 病に侵されたヴァンだったが、なぜか発症せず、かわりに犬の嗅覚や聴覚などを発揮できるようになっていた。
 獣の力でつながれていた鎖を引きちぎり、脱出したヴァンは、食事を作る女奴隷の小屋で、彼女らの一人が生んだ幼い女の子ユナを見つける。ユナもまた、黒狼に襲われても病で死ななかった人間だった。

 というのが冒頭のあらすじで、ここからヴァンはユナを連れて逃げ出し、さまざまな人と出会い、絆をきずいてゆく。
 でも上巻を読んでいて、ちょっとこれは買うのを早まったかなとも思っていた。それは、もう一人の主人公ホッサルのターン(視点交代制で進む)があるから。
 ホッサルは大国に住む異民族だが、高い知性と医療技術を持つ医師だ。異民族が生き残るすべとして、ホッサル達は医術を高めている。
 しかしその国では先進医療よりも宗教が強く、戒律に反することは何があってもしてはいけない(けがれた動物のものは体に入れない=乳製品などを口にしない、など)ので、しばしばホッサル達と対立している。
 宗教さえなければ~柔軟な考えがあれば助かる命があるのに、それをしようとしない。その国にも医師団がいるが、彼らの治療は根本治療ではなく、ゆるやかに死に向かわせる治療だ。
 けれどホッサルは葛藤の中、神の教えでなければ救えないものもあることに気づく。それは、人の心である。
 苦しんで死んだ人の遺族は、自分が何もしてやれなかったことなどを悔いている。それで泣く。宗教家はそれを許す。もう死者は苦しみから解放された、あなたは生き続けてよいのだと説く。遺族は泣き続けるが、明らかに表情が楽なものになる。そういう場面がある。
 これは、現代の終末医療、ホスピスのことを書いている。ホッサルの出る場面は、現代医療行為そのままの写しだ。
 宗教と現代医療の葛藤とか、大国と支配される側の思惑とか、ホッサルのターンで大事な要素や意味あるシーンは多いのだが、ホッサル達が疫病の人々を助けようとする描写は読んでて退屈だった。
 注射器とか顕微鏡とか、そういうところまで科学技術が発達しているこの世界で、ホッサル達の描写はファンタジー要素がなく、テレビの医療ドキュメントそのままだったからだ。

 それよりもヴァンとユナがどうなっていくのかが気になった。ヴァンと大国に支配される少数民族の人々との交流や雄大な自然描写は温かく生き生きしていた。急に妖精とか出たりはしないが、山で暮らしている人々や動物の描写は読んでいて楽しかった。
 
 ホッサルのシーンが退屈でヴァンの方が面白いと感じるのは、山の暮らしが私達にとって異界だからだろう。
 ファンタジーというのは、自分が生活していない世界や環境に身を置いて初めて感じるものなのだと、これを読んで知った。だから、もし私が山育ちで現代社会を知らないなら、逆の感想もあり得たのである。

 そして不要なんじゃないかと思える長いホッサルの医療ドキュメントと、疫病である黒狼熱対策の内容は、下巻のために用意された伏線だった。
 上巻で退屈で投げた人がいたら、ちょっと辛抱して下巻まで読んでほしい。

 この物語はヴァンだけで話が成り立ちそうだが、あえてホッサル=現代人の投影=を入れることで、現代的思考やアミニズムに生きる人々との考え方の違い、現実と幻想(霊的なもの)の対比を生んでいる。
 その双方の視点から一連の話を見ることで、一方に偏らない大局観が読み手にも生まれるのだ。

 オチを言ってしまうと、人間を徒党を組んで襲う黒狼は、人間に操られた狼だった。
 狼が持つ疫病によるテロを首謀者が企んでいたのだ。その病気は、テロ側の民族にはかかりにくく、狙う大国の人間だけ殺すことができる。
 先祖代々大切にしてきた土地を奪われ、植民によって生態系をも変えられた原住民の怒りと悲しみがテロを引き起こすこととなった。

 でも事はそう単純ではなかった。テロを起こす民族全員が、そう考えていたわけではなかったからだ。そして、支配される側となった今では、支配されないと生きていけない状態にもなっていたのである。

 しかしテロリストはそこまで考えない。いや、気付いていたとしても、自らの怒りのために行動するのである。その視界には、関係のない弱者~特に幼い子どもが巻き込まれることすら考えていなかった。

 この状況、何かに気づくだろう。そう、今私たちが生きている世界とそっくりだ。
 良質なファンタジーは現代の投影だと上橋作品で解説した人がいたが、鹿の王はそれを強く実践した内容だったのだ。

 これを読んだ人は、多くが、自分が生きている世界のありようを考えるかもしれない。
 集団自衛権や新しい安保法。隣国がどんどん勢力を広げ、戦闘態勢に入っているからといって、こちらも武力のみに目を取られ、ハリネズミのごとく武器を盛っていないか?
 いつ戦争になるかと、お互いにらみ合う状態を正当化していないか。

 戦争は仕方ないと言い切るやつらは、自分が危険な目に遭わない安心から言う傲慢だ。憎しみは飛び火する。
 関係ないと思っていたところに燃え移る。真っ先に死に向かうのは、未来を担うはずの幼い子ども達なのだ。そしてそれは、戦争を正当化している人達の家族かもしれない。

 物語でも、ホッサルがその問題に触れる。そして、何年かかっても話し合うことこそが大切だと語る。お互いに理解を求めることが理想だと。

 この場面で、私は山崎豊子の「大地の子」を思い出していた。
 大地の子は、日本人と中国人の考え方の違いが克明に描かれている。中国人の長所と欠点が鮮やかだ。
 欠点だけ見ると、なんて横暴なんだ、とても仲良くなれない!と思い込んでしまうが、礼節を尽くし情に厚いなど、長所にも目を向けると、「これが中国人なんだ」と、腑に落ちるのだ。
 作品では、日本人の主人公一心が、故国と育ちの国、どちらに属するかで悩むが、最後に「自分は大地の子だ」と実の父に言う。あえて国名を出さず、グローバルに大地と言うことで、国や民族という名としがらみを超えてつながることができる。
 
 これが個性、と認めること。民族=一個の人である、とお互い認識し、尊重すれば、争いは自然と消えるのだ。

 
 

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2015/10/06 10:04
2に続きます。もしコメントがあれば、そちらにお願いします。



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