アスパシオンの弟子70 時の泉(前編)
- カテゴリ:自作小説
- 2015/11/07 19:45:04
辺りに充満する、甘い甘露の血の匂い。
目の前にぷるぷると、まっ白で細かい丸い粒が無数に浮かんで漂っている。
甘露。ノミオスの血の雫だ。
「ノミオスちゃん……」「ごめんね。ごめんね。もっと早く助けられてたら……」
赤毛の妖精たちがすすり泣いている。
意識の無い瀕死のメニスの子を抱きしめる二人はふわふわ浮いていて、自分達の服を割いて包帯にして、流れ散るまっ白な血を止めようとしている。
俺は必死に周囲の甘露の雫を寄せ集めて、ノミオスの口に運んだ。体から出て行くものを少しでも取り戻させてやりたかった。
「ま、マミヤちゃんになんて言ったらいいの……」「こんなこと絶対言えないわ。こんなひどいこと……」
ローズとレモンにとってノミオスは、赤ん坊の頃からずっと見守りかわいがってきた子だ。実の子と変わらぬ存在の子を殺されかけて、正常な気持ちでいられるわけがない。怒りとショックに任せて数十人もの人間たちを焼き殺した二人を、俺はついに責められなかった。
泣き崩れている二人の様子を見ていると、怒りがふつふつと湧いてくる。哀しみがじりじりと胸を焦がす。
父親なのに……!
アイテリオンは俺をおびきだすためだけにノミオスを使ったような言い方をしていた。世界ノ破壊は双子の片割れのヴィオに任せると。
「そんなこと、させない!」
まだ止まらない涙をぐしぐし拭って辺りを見回す。
周囲はどこまでもまっ白で、じっとり湿っている霧のただ中にいるようだ。
重さのないこの空間は、無限のようでとても狭かった。手足を動かせばどこまでもどこまでも進める感覚に陥る。だが俺のすぐそばには、赤毛の子たちと瀕死のメニスの子が常にいる。少しも離れていかない。進んでいるようで、実は距離的には一歩も動いていない。
白の導師の封印結界の中は、閉じられた空間らしい。
『理想の世界ができるまでゆっくりと』
アイテリオンはそうほざいていたが、いくら奴とて何年もこの結界を張り続けられるわけがない。俺たちをどこかに運んで封印するつもりだろう。
遠い未来に会いましょう――そんなニュアンスの言葉から推測できる処分方法は……
「時の泉の永久凍結か」
「時の泉」に落とされれば、俺たちはたちどころに瞬間凍結する。瀕死のノミオスも死ぬことなく「死にかけ」の状態で固まるだろう。とすると……
「俺たちは、メニスの里へ運ばれてるかも」
「おじいちゃん、そこって北五州の地中深くにあるんでしょう?」「ここから遠すぎない?」
「いや。運び手は、びっしり貼りついてきた無数の白い胡蝶たちだろう。人工精霊のあいつらの推進力は相当だぞ。蝶に運ばれてくるアイテリオンは、いつも瞬間移動したように見えるからな」
さっき感じたあの急激な落下感。ずいぶんと地下に落とされたような気がする。俺はポチでエティアに侵入できる地下道を作ったけれど、アイテリオンも同じ事を考えたんだろうか。なにせこの大陸には地下世界がある。そいつを利用してエティアとメニスの里を結ぶ地下の直通路ぐらい、余裕で作ってそうだ。
「私達、封じられるの?」「この世の終わりまで外に出られないの?」
「大丈夫だ」
ぐしりと、青い衣の袖で潤んだ目を拭く。外が全く見えなくて推測しかできないのがもどかしかったが、俺はすすり泣く妖精たちにきっぱり請け負った。
アイテリオンへの、抑えがたい怒りを燃やしながら。
「みすみす封印なんてされるものか!」
とにかく状況把握のために結界の外を見たい。
ノミオスの応急処置がひと段落すると、俺はまっ白な壁らしきところをなんとか崩そうとした。だが閉じられた空間は、どんなに近づこうとしても手が届かなかった。
外側には壁が存在しない、となれば外へのつなぎ目は、空間の中心にあるということだろうか。
俺は手探りで結界球の中央付近を探った。しばらく手が空振る。そうだ、と思いついて赤い義眼の左目をシュンシュンと動かす。
ソートくんがわざと俺が作ったものとすり換えたこの義眼――アイダさんの目が、さまざまな探知を始めた。
赤外線。紫外線。磁気。魔力探知……
「うわ、これやばい。そういや見えればいいや~と思って、ずっと手入れするのサボってたっけ」
義眼の反応が鈍い。画面の切り替わりが遅くて、ぼすぼすっという嫌な雑音までしてくる。だがなんとか、空間歪曲探知膜を起動できた。
薄い紫にそまる視界に方眼のようなシートが映る。推測通り、結界球の中心にわずかな空間の綴じ目らしき歪みがある。ここをこじ開ければ、結界に隙間を作ることができるはずだ。
俺は背中の赤猫剣をすらりと鞘から引っ張り出した。
『ち、ちょっとなにするんですか?』
「いやその、ちょっとぐりぐりねじ込もうと思って」
『えっ……ねじ……? いやです。やめてください』
「ちょっと突っ込むだけだよ」
『あなたは私の主人じゃないと何度言ったらわかるのですか。勝手に私を使わないでくださいよ! ブラッピとかピカプリオとかならともかく』
「なんだそれ」
『今は無き青の三の星の、大昔の銀幕スターですよ。自慢じゃございませんが私はかつてハリウッドにいたことがございまして、マァリリン・モンローと共演したこともあるのです。お疑いでしたら、証拠の記録映像を今ここにお出ししてみせま……きゃあ!』
俺は剣の話の続きを無視して剣の切っ先をずぶりと空間の中心点に突っ込み、韻律を唱えた。たぎる怒りが身を駆り立てていて、剣の説得を試みる余裕などまるでなかった。
修行不足で情けなくもなけなしの魔法の気配がじわじわ降りて来る。やはりかなり微弱だ。この素の力のままではまったく効かないだろうから、結界増幅装置を起動させる。最大出力にダイヤルアップ。
『あああああっ! なにこれびりびりくるっ』
「韻律で震動してるんだ。ちょっとの間触媒になってくれ」
『いや! いやです! わが主! スイール様! たすけて!』
さっき赤猫の意識が出ていたはずなのに、今はそのかけらもない。赤猫と剣、二つの意識が混濁しているようだ。スイール・フィラガーは死んだと何度も教えたが、剣の意識はいまだにその死を認識していなさそうだ。残念ながらかなりもうろくしているといわざるをえない。
『スイール様ぁああ! こいつひどいですう!』
「ごめんっ、君の剣先から力を放出してる。もう少し我慢して」
『いやああああっ!』
ばちり、とものすごい放電が起こり、剣の切っ先から空間が少しだけ拓けた。
衝撃で意識がはじけ飛んだのか、赤猫剣が沈黙する。
俺はとっさに開いた穴に、右手の指を突っ込んだ。韻律を唱えながら指の先からゆっくり力を込め、まるで風船をふくらませるように小さな丸い結界球を膨らませる。
「よし、窓みたくなってきたっ……って。うわっ?!」
丸い透明な球で作った栓のむこうには、光り輝く水。
目に飛び込む鮮やかな青。それは――俺が作った泉だった。
結界球は体感で一時間もたたぬうちにメニスの里に行きついたらしい。
それどころか。
「結界が消えるわ!」「水が入ってくる!」
里のさらに地下に在る時の泉の中に、いきなり投げこまれたようだ。
「くそ!」
めきめきと白の導師の結界が消えていく。
上から、アイテリオンの声が降ってきた。
――『わが子よ。わが子の庇護者よ。この残酷な世界が終わるまで、安らかに眠りなさい』
この先どうなるのでしょうか?