Nicotto Town



なんだかねぇ。

 書きかけでお蔵入りになってるものばっかりだな。
 まぁ、非表示にするとか消すとか方法論は色々あるけど、なんとなくいまいちな気がして。

 あの後も思うところは色々あるようなことが発生していたようだけれども、一方的に不愉快なだけだからなぁw別に本人にバカジャネーノって言ってもいいんだけど、お友達と感動のコミュニケーションごっこやってるところに水差す価値や意味が無いしなぁw
 ま、ただの逃げてるヘタレな行動にお好きな作品の名言を引くのは作品に失礼で、確認もしないでうろ覚えのまま荘子を引いて上っ面の格好だけ付けた遺書を書くようなおっさんは見事に間抜けだと良くわかりました。
 教えたやつがまちがってんのかもしれないけど、きちんと話を聞いているのなら、自分でも調べ確認するはずなのだが、二文字も違ったらもうでたらめに等しかろう。一体お友達から何をきいて何を学んだんだねw
 最後の姿はこんなにアホでしたって残す価値は何だろう。
 まぁ、セオリー通り、そうならないことを見越してそういう適当なものを書き散らかしていたのかもしれないけれど、そこまで考えると、並ぶ言葉の質量の無さに眩暈がするな。その時点で並ぶ言葉の多くが意味を失うのだから。

 おっと、これじゃ、ダミーでこれを書き始めた意味がねぇなwまぁいいやw

 自分の元から悪い愛想が更に悪くなった理由は無責任な同調に対する薄ら寒さを感じるからだったりもする。
 そりゃ、同調して「居ないやつ」を貶めるのは簡単なんだけど、だよねーって同調するということは少なからず「そうだとおもうやつ」の影を落とす。でもそんな人存在しないんだよな。下手すりゃちゃんと話すら聞いてないw
 どうせ愚痴言う人なんて自分の視点で怒ってたり、文句や愚痴を言うんだから、自分の都合の悪いものは見えてないし、下手すれば隠蔽されてるわけで、そんなアンフェアな条件で立ち位置を明言するのは思考の放棄だが、言責から逃れられるのか?
 求められているものは同情や同調かもしれないが、じゃ、その時に自分にとって楽でいい人で居られる言葉は、長期的に、相手にとって本当に最適解か?
 聞こえのいい言葉を言うことも、同調することも簡単だ。だが、自分がそうするということは相手もそうではない可能性を示してるわけで、「みんなそういっている」の「みんな」の一人ひとりの質量が限りなくゼロに近いことを示している。
 それは、くだらないことならそれでいい。でも、何かに迷ったとき、その、そうだねー。だよねー。に、自分の正当性を示す意味が無いってことでもあるのだが、そういう「信用できない言葉」の何を信じるというのだろうね。話を言葉尻でしか聞いていない相手はその迷いにすら気が付かないぞ?

 流れ弾が飛んでこないからって、同調して、居ない誰かを一緒にこき下ろすのか?
 でも、本人が居ないからと「その友人はサイコパス」と吹いて回る人が他所で自分のことを悪し様に言わないことを担保するものなんてあるか?見えないところなら許容するのか?見つけない保証はどこにある?
 学習意欲が無いと自分自身は学ばない講師の生徒が、ここに迷い込まない保証はどこにある?というか、「それは顧客でもある」のだが、そんな失礼な人を信じて何を教わろうというのか?その人間が発する言葉と同じロジックは自分にも適用されることを忘れちゃいけないと思う。

 まぁ、「楽になる空箱の言葉」がほしいのなら、媚は売っておくべきなのだろうな。
 楽しいのか?とか、意味があるのか?といえば、形だけのフィードバックはもらえるようになるのだろうが、意味はあるんだろうかねぇ?
 暇は潰れるだろうし、お友達いっぱいの「気分」にはなるのだろうけど、それは嘘や無思慮で出来た虚像であって、その相手のお友達は虚像さんのお友達なのだよなw

 暇潰すだけならやることはあるし、むしろ逃げたいくらい思いつくやってみたいこと、やろうと思うことはあるわけだが……。




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