Nicotto Town



アスパシオンの弟子80 着水(前編)

 レモン。レモン。
 その魔人は俺だ。頼むから、妖精たちに伝えてくれ。
 その魔人は、我が君アイテリオンに、利用される――

 ハッと目を開ける。俺にとってはまた、まばたきする一瞬の間。
 今度は、一体どれぐらい経った?
 レモン、教えてく……
 レモン?!
 いつも俺の目の前にいた少女。数えてなかったけど、たくさんの口づけをしてくれた少女。その子の姿が、ない。
 一体どうした? あの子に何があった? 
『ずっと一緒よ』
 そう言っていたあの子はどこだ?
 やっと自由になったというのに、俺の頭はそのことだけで満たされた。
 アイテリオン様にまっさきに呼びかけるべきなのに、俺の口はレモン! と叫ぶ。しかし声は、出ない。方舟の中は今や真空。音波が伝導しない空間に成り果てているからだ。
 割れている天蓋。漂うおびただしい瓦礫。星空がかいま見える割れ目が一層広がっている。
 眼下の樹木はすっかり枯れて、灰色の世界。中央に建つ白い建物は無事に在るが……娘はそこにいるだろうか。
 翼を動かしてみるが、気体がないので全く飛べない。黒ずんだ体はすっかり凍りつき、思うようにならない。真空では音波が伝わらないから、韻律は使えないだろう。
 木々に繋がれた鎖を手で手繰り、地に降りて倒れた木々にとりつく。そこで鎖をちぎる。幹から付き出た枝をつかんで伝い、なんとか白い建物へたどりつく。
 建物の突起を手がかりにして屋内に入ると、爆発した後のような光景にでくわした。奥の壁が一部なくなり、建物の裏手に大きな穴が空いている。あたりには、いろんなものが散乱して宙に浮かんでいた。
 金属の箱。ひからびた果実。凍りついた毛布。やけこげたような巻物。枯れた植物の植木鉢。たくさんの瓦礫。そして――金属の寸胴な筒のようなもの。

 レモン!

 近づいて手を伸ばす。
 金属のヘルメットの一部分が割れている。まずい。いつからこの状態だ?
 うすいギヤマン加工の膜のむこうにみえるまぶたは、閉じている。

 レモン! レモン……!

 ギヤマンの膜がほんのりくもっている。まだ中にはうっすら空気が残っているようだ。背に負っている酸素ボンベも無傷だが、たぶんヘルメットから漏れでて、残量はほとんどないはず。
 何者かの攻撃ではなさそうだ。起きたのは突然の事故? 
 空気と共に物品がだいぶ流れ出している。幸いなのは、レモンがたぶん俺の封印が解ける兆候をみてとって、金属服を着込んでいたこと。そうでなければ一瞬でこの子は……。
 俺はおのが翼で金属服の娘を包み込んだ。ほとんど残っていない空気を、大きな白い羽毛で何とか食い止める。
 下界と連絡がとれる機器はどれだ? 緊急の救難信号をだして救助を頼まないと……
 これか!
 壁際に付き出た卓状の板にとりつく。
 だが、その瞬間。

 ずきり。

 青い宝玉がはまった胸が、ひどく痛んだ。宝玉が、点滅している……。

『おお。おまえは……』 

 するとすぐに、俺の脳に我が君の声が響いてきた。

『ペピ。私の魔人、ペピですね。どこにいるのです? どこに封印されているのですか?』

 青い宝玉が俺の主人に信号を送ったらしい。 

『ペピ。魔人が足りず、私は危険にさらされています。おかげでメキドと交渉をする羽目に……早く、私の元に戻ってきなさい』

 俺は。俺は……善き魔人、のはず。なぜ敵の娘を助けている? なぜ……
 くそ!

『はい。アイテリオン様』

 そう答えたものの。俺の銀色の右手は、俺の心の底の意思通りに動いた。卓状の操作盤に触れ。震えながらも、信号を打ち込む。 

 Adiuvate!(助けて!)

 神聖語の文字を、何度も打ち込む。

 Adiuvate! Adiuvate! Adiuvate

『ペピ』  

 我が君。

『ペピ。わがもとへ……』

 我が君。俺は。

『すぐに飛んで来るのです』 

 俺は……悪い、魔人、です……。
 体が震える。主人の命令に従って、白い翼を広げようとしている俺がいる。
 だめだ。そんなことをしたら、レモンは死んでしまう。
 こらえろ! 
 羽を広げてはいけない。主人の声を聞いてはいけない。
 耐えろ!
 いけない。いけない。だめだ。開くな。開くな。どうか。俺の翼よ。
 開かないでくれ……!!

『ペピ』

 銀の右手で我が胸をつかみ、念じる。
 うるさい。黙れ――!! 
 しかし翼は開いていく。ゆるりゆるりと、開いていく。一本一本握りしめた指をこじあけるように、白い羽毛が金属の筒服から離れていく。凍った俺の両まぶたから何かが出てくる。
 頼む。やめてくれ。俺は。レモンを。失いたく、な……――!




 しゅこーっ
『なんてきれいな結晶……』
 しゅこーっ
『中におじいちゃんがいるはずよ。耳には、マイクが入ってるわ』
 しゅこーっ
『覚醒させられる? ターコイズ』
 しゅこーっ
『たぶん』

 あ……

『でもこの結晶の塊を崩さなきゃ』
『ものすごいわね。まるで水晶の森みたい』  
『翼の羽毛が変化したみたいね。一面真っ白だわ……おじいちゃん、すっかり彫像みたくなってる』

 妖精……たちの声? 呼吸音と一緒に、若い女の子たちの会話が聞こえてくる。ああ、目の前に何かがいる。金属の筒服……ひとりじゃない。幾人もいる。救難信号を受けて、来てくれたのか?

『ひ! 結晶の中のおじいちゃんが、目を開けたわ』
『気がついたの?』
――
『いーからどいてどいて。ほー? へー? うーん。顔黒いけど、じじいには見えねえぞ?』 

 ?! 男の、声?

『摂政さま、結界を張って』
『えー。ここ真空だからムリ。ターちゃんがほっぺにチュウしてくれたらなんとかする』
『……それなら結構です。私が酸素出して擬似結界装置作動させます。アメジスト、救急テントはって』
『ターちゃんごめん! 俺様が悪かった! お願いだから結界張らせて』
『ちっ』

 しゅこーっという呼吸音と共に吐き出されたターコイズの舌打ちとともに、大きな青い幕が拡げられた。特殊な織物なのだろう、てらてら光っている。 
 しゅうううううう
 幕の中でターコイズが抱えている大きな箱が開けられたとたん、すさまじい音があたりに響く。気体発生装置らしい。みるまにあたりに物音がたつ。
 ちりちりぶつかりあう破片と瓦礫。しゅこーっしゅこーっと金属服からでてくる呼吸音。ぶすぶすめりめり広がっていく、青い幕。いまや幕はパンパンにふくらんで、俺たちはまあるい風船の中にいるがごときだ。

『ヘルメット外していいですよ、摂政さま』
『ほんと? 外したとたんに、ひでぶ! とかなんない?』 
『私たちが総力をあげて製造したオキシジェンタは、地上の空気組成とおなじ気体を出します。ですから、残念ながらそんなことにはなりません』

 残念ながらってどういうことよ? と愚痴りながら、目の前にいる金属筒服の者がひとり、すぽりとヘルメットを外す。
 とたんに俺の胸の宝玉が、ひどく高鳴った。なにこの人。見たことある。いや、よく知ってる……
 何ヶ月も櫛を通してなさそうな、ぼさぼさの髪。無精ひげが伸びた顎。その口から、なんとも美麗な歌声が出る。たちまち降りてくる、魔法の気配――。
 その人は。筒服の先から付き出ている右手をかざし、結晶越しにニヤリと微笑みかけてきた。

「やあ、魔人さん」


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2016/01/15 21:16
今回はどうなったのかな?




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