Nicotto Town



お勉強! らいてふ




平塚らいてう
(「てふ」じゃないよ!)




明治30年、未だ封建的な男尊女卑が根強く、たとえ女学校を出ても

社会に進出していく女性はほんの一握りだった!

らいてうは女学生!「終身」の時間をさぼり、自分たちを「海賊組」と称し先生に対して常に反抗的であった。反抗することが自分たちの存在を示す手段であった。


『いつも言っているでしょ!教師とすれ違うときはきちんと静止してお辞儀をしなさい。』


『学問など女にとって不要です。女学校で学ぶことは裁縫、家政、手芸、行儀作法です。』


『あなたたちのようではお嫁の貰い手はありませんよ!』



『申し訳ありません、先生!親が勝手に決めた殿方のもとへ嫁ぐつもりはありません!』


『所詮、女学校は良妻賢母を作るところ、私はここを出たら、女子大学校へ行くわ!』


 しかし、期待した女子大学校は結局女学校とあまり変わらなかった。

『良き妻、良き母、女に生まれたばかりに決められた生き方しか選べないなんて!』



女子大を卒業した
らいてうは22歳のとき、妻子持ちの小説家と心中事件(塩原事件)を起す。この事件は「小説家と女子大学卒業生の心中未遂事件」として写真入りで新聞報道され、一躍彼女は女子大出の悪名高い「跳ねっ返り」となってしまった。


 恋愛にも失敗し、自分でも何ができるか分からないまま時が流れた。
25歳のとき恩師の生田長江から女性だけの雑誌を作らないかと誘われる世に埋もれた女性たちの才能を開花させるという使命感を得たらいてうは、仲間を集め、資金を調達し、原稿を依頼し、女性のための雑誌作りを一から始めた。


 表紙は後の高村光太郎婦人、長沼智恵子(「智恵子抄」のモデル)

そして目玉として、当時既に人気が出ていた与謝野晶子に創作詩を依頼  雑誌名は「青踏」(ブルー・ストッキング)

※イギリスでは男性に混じって芸術や文学を論じた女性たちを馬鹿にしてそう呼んでいた


『西洋でも古い因習を断ち切って自分らしく生きようとする女性たちはあざけりと蔑みから逃れられなかった!私たちもいずれ同じように冷笑されるはず。だったら先に自ら「ブルー・ストッキング」と名乗りを上げ、批判に真っ向から立ち向かっていけばいい!』



それは世間に対する「宣戦布告」だった!そしてかの有名な…


原始、女性は実に太陽であった

今、女性は月である

他によって生き、他の光によって輝く

病人のような蒼白い顔の月である

私どもは隠されてしまった

我が太陽を

今や取り戻さねばならぬ

・・・・・      

             1911年(明治44年「青鞜」創刊)



「青鞜」を読み矢も盾もたまらずこうして筆を取りました。私はこの春、上野の女学校を卒業し郷里に帰り、親の決めた見も知らない人と結婚するはずでした。しかし、私はどうしてもこの因習的な結婚を受け入れられず悩んでいました。


わずか3000部の創刊号であったが、その反響は大きく、読者の手紙が後を絶たなかった。その後、順調な滑り出しを遂げたが、世間一般の目は冷たく、新聞は「新しい女」と称して「青鞜」を徹底して批判した。また、海外留学を経験し、女子教育の先駆者津田梅子からも悪魔のような危険思想と酷評された。


自由民権運動が一段落し、外国文化が急速に流入し社会は大きな変化を起こしていた。しかし、古い風習の中に閉じ込められた女性たちは、新しい時代になっても政治に参加することはおろか、表立って意見を言う場さえ無かった。父や夫、子供に尽くし日陰の存在として一生を終えていくしかなかった。「青鞜」はそのような時代の中で女性の解放という大儀を掲げて奮闘した。女性が男性と同じような教育を受け、同じように社会に進出し、同じように働く、そのような社会を目指す運動はその後日本の女性運動に多大な影響をもたらした。

 





お勉強になったでしょ!ふふ(^^♪

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2016/01/23 05:31
おはようございます。
らいてうさん、少ししか知らなかったけど、紆余曲折あって
本当に『女性』として自立されたんですね。
勉強になりました。
いろんなことをよくご存知なんですね^^。
リュウさんこそ、勉強家です。
えっ?3コインで雪かき?
まだこちらは雪は降ってないのでした~♪



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