自作9月 かげろう・風 「怨風の谷」1
- カテゴリ:自作小説
- 2016/09/23 17:31:31
風が吹く。
びゅおうびゅおうと、谷間におどろおどろしく吹きぬける。
深き地割れが無理やり押し広がったような大峡谷。
眼下に見えるは、清き流れの銀の筋。
杖突く老人がひとり、あたかも舞台のごときにせりだした岩の上に登る。
耳を澄ませているのか、じっと谷底をみやるその双眸は、まばたきひとつない。
「なんと物悲しき音よ」
漆黒のマントが、強風にはためく。
「つわものどもの、怨嗟の声であろうな」
『|主《ぬし》さま。かのお国よりご使者が参りました』
背後より呼ばわる朧な声に、老人が振り向く。
カッと眼光鋭く見開いたその眼に、ゆらゆら揺らめくかげろうの炎が映る。
青白い炎は、ぼんやり人の形をとっている。
およそこの世のものとは思えぬ輪郭だ。
「しもべよ。ここはかつて戦場となった地」
黒マントの老人は杖で谷底を指した。
「三十年ほど前のこと、大スメルニアの軍勢が、エティアに進入しようとこの峡谷を渡ろうとした。その進軍を食い止めるべく、エティア王は容赦なく、谷にかかる橋を落としたのだ。長き橋を、スメラの国の兵士たちが、いままさに走り渡っている時に」
『それゆえに、谷底から魂のざわつきが聞こえまするのか』
ゆらゆら揺らめくかげろうが、痛みの入った声を発する。
『それは大変きのどくなこと』
「この世ならざるものとなりしも、まだ心はあるのか」
『こころ?』
「まあ、おまえはまだ死して、間もなきからであろうな」
杖突く老人はかつかつ音を立て、岩を降りた。
目の前に大きなくろがねの塊がある。|皇《すめら》の国より飛んできた、|鉄昆蟲《クンチョンティエ》だ。
その姿はカマキリのごとしで、すらりと細身。節が重なる六本足は鋭利な針のよう。前の二本はぎざぎざの刃状がついており、なにものも切り裂かんと、ぎらと光を放っている。
円く黄色い複眼を頂くくろがねの首が、カクリと動いて横にもたげられると、腹部の騎乗席に座す者の姿がかいま見えた。
「ごきげんうるわしく、黒き猫の当主よ」
目を半ば隠した銀兜をかぶり、ぴちりとした銀色の服をまとうその者は立ち上がり、朗々と共通語で挨拶してきた。
「我こそは斉洲荘公・光閣下より遣わされし、スメラの風乗り甲月栄。誉れ高き羗家の第三分家の家長たる卿の手足となるよう、本家主公、光閣下より仰せつかってまいりました」
「その心遣い、かたじけなし」
黒マントの老人はずいと、鉄の虫の騎乗席に登った。
二つ連なる席の前へ腰を下ろすや、一瞬くわりと眉を上げる。
「芳香……」
つぶやきを聞いた風乗りが、唯一あらわな口元をくいと引き上げる。
「失礼を。きつうございますか」
「否。メニスの甘露のごときおぞましさではない。銀の髪のあの生き物の甘ったるい香りばかりは、なんとも辟易するものだが。そなたの香りは心地よい」
「この薫香は、羗家に仕えし者の匂いにございます」
「であろうな。我が家でも儀式の折にまとう直垂には、香を焚きしめる。伽羅の入ったものをな。しかしこの国では、洗い落とした方がよいかもしれぬ」
「素性がばれまするか」
「いかにも。まあ……」
黒きマントの老人は目を細め、スメラの風乗りの紅き口元を眺めた。
「王弟殿下にお近づきになるのであれば、その香りはむしろ助けとなろう」
「……ではそのままに」
風乗りの艶やかな口元がほころぶ。
「即時離陸!」
りりしきその声とともに、しなやかな細さを誇る鉄の昆虫がふわりと浮き上がる。
「しもべよ。ついて参れ」
老人は、宙にゆらめく人魂のかげろうに命じた。
「エティアの新政庁はすぐそこぞ」
銀に輝く羽を広げ、|鉄昆蟲《クンチョンティエ》は飛び立った。
峻厳たるも亡者の叫び満ち満ちた、絶壁を飛び越えるために。
しゅかしゅかと、蒸気の雲が青空にたなびく。
ゆるやかな稜線を左右に望む平原を、長い長い金属の箱のような連なりが走っていく。
野に敷かれているのは、地平線の果てまで続く鉄の道。
先頭で箱の連なりを引っ張っているのは、鋭利な形の機関車だ。
左右に流線型の、竜の翼のような耳がついている。
「海の次は、山ですかー」
背に長い剣を背負った赤毛の青年が、地図を片手に機関車がひっぱる車両のひとつから顔を出した。
とたん、うっぷと煙にまかれて目をしばたかせる。
「すごい煙!」
中に体を戻せば、向かい合わせに据えられた座席に、銀の髪の美しい人が座っている。
その膝の上にはちょっと太目のウサギがいて、目じりをたらんと溶け落ちそうなぐらい垂らし、ニンジンクッキーをほおばっている。
ウサギは青年の雇い主。銀髪の奥さんに抱っこされているので、大変ご満悦だ。
美しい人の体臭なのだろうか、あたりになんとも甘い香りが漂っている。
花のような。果実のような……。
胸いっぱいに吸い込むとくらりとふらつきそうになったので、青年はぶるると頭を振った。
機関車の旅を始めてすでに数時間。
「カーリン元気かなぁ……牙王が見てるから安心だけど」
幼い娘は、今回は塔で留守番だ。牙王と狼たちは、銀枝騎士団とともに、隣の王宮の警護に駆り出されている。
機関車に乗っているのは、青年とウサギ。そしてその奥さんの三人だけだ。
「あのう、今回はどうして塔で行かないんですか? 走りがのろいからですか?」
「いやさすがにさ、谷は越えられないから。あの塔、走り幅跳びは無理なのよー」
ウサギは幸せそうな面持ちで、ニンジンクッキーをごきゅりと呑み込んだ。
甘い匂いがするその菓子は、青年が朝、塔の厨房で焼いてきたものだ。
「断裂の谷にはさ、昔ちゃんとでっかい橋がかかってたんだけど、ジャルデ陛下が落としちゃったんだよな」
「蛇をお妃様にしている陛下が?」
「そ。蛇にとぐろまかれてる陛下が。スメルニアと戦をしたとき、相手の軍団を止めるためにやむなくな。で、橋はそのまま復旧されないできたんだ」
現在エティアはかの大国と友好的な関係にあるが、ひと昔前までは仇敵同士のごとく争っていた。
双方の国内には、反エティア・反スメルニアの派閥がいまだ存在し、それなりに発言力がある。
ほんのささいなことで、戦へ発展する動きが活性化する状況にあるといえる。
「断裂の谷は、スメルニアと国境を接する大山脈にある。橋の向こうの山々に住んでる人はほとんどいないから、橋の修復はわざと行われてないまま、放置されてるんだ。万が一、友好関係が突如崩れてスメルニアが攻めてきても、そこで寸止めできるように、っていう国土防衛策のひとつさ」
「ところが王弟殿下が谷の向こうの、スメルニアとの国境すれすれのところになんと……塔を建てた……」
青年は地図を指でなぞった。
平野の真東。突き当たりにある山脈の、南方の部分。スメルニアとの国境すれすれのところに大きく印がついている。
そこが、目指す目的地だ。
「塔の建設だけならまあ、病弱な王弟殿下が、転地療法のためにこっそりそうしたんだって話なんだがな」
まさか、落とした橋の復旧まで勝手に始めるなんてと、ウサギは深いため息をついた。
おわりにきていつもの皆さんの和やかな
会話
列車の旅も楽しそうです
嫌な予感が当たらなければ良いのですがね。