Nicotto Town



自作9月 かげろう・風 「怨風の谷」3


 がしゃり、と華奢な音が響きわたる。


 パッと床に散らばるのは、ギヤマンの小瓶の破片。

 たった今、思い切り床に投げつけられ砕け散ったのだ。

 粉々に散らばった輝きのかけらを舐めるように、銀色の液体がじわじわと四方に広がる。

「もう薬などいらぬ」

 しゃがれ声で、ソファの海に埋もれているその男はぼやいた。

 そこそこ見目良い金髪の貴人だ。

 体はずいぶん痩せており、とても頼もしいとか壮健という感じではない。

 ずいぶん色白なのは生まれつきなのか。それとも病のせいであろうか。

「しかし殿下、ここはたしかに空気はようございますが、いきなり服用をおやめになるのは……」

「気分爽快だぞ。体が軽い」 

 絹の白シャツをぞんざいに羽織った男のまん前に、蒼い神官服に身を包んだ者が腰をかがめている。

「せめてあと数日は、ご服用くださいませ。このモレー、殿下が大変心配にございます」

「いらぬと言ったらいらぬ。もう咳は収まった。モレー、そなたの言うとおり谷の上に塔を建てたは、大正解であったぞ。兄上に手紙を書く。転地療法を許可してくださり、大変感謝していると」

――「失礼いたします。お呼びでございますか、王弟殿下」

 ソファに沈んでいた男は、部屋に入ってきた者を見て満面の笑みを浮かべた。 

 ふわりとほんのり艶やかな香りが室内に広がる。来訪者の体から漂う芳香だ。

 長い蒼髪を結い上げ、珠のかんざしをたくさんつけた異国の貴婦人。

 その衣は幾重にも重ねられた錦織。
 その上に、透き通った紗の裳を羽織っている姿はまさしく天女のよう。
 白き顔は秀眉麗明にして、蒼き瞳がきらと大粒の蒼鋼玉のごとく輝いている。

「よくきた月栄。今日も谷間を飛んでくれ」

「かしこまりました。それではさっそく、搭乗のご準備を」

「殿下……」

「心配するなモレー。すぐ戻る」

 絹のシャツの男は神官を押しのけるように脇をすり抜け、美しき貴婦人の手をとった。

 貴婦人と連なって歩くその足取りはとても軽い。

 子供のころから守役を務めてきた神官が、この谷間を流れる渓流の水が体によいと急に言い出したのを、男はおよそ半信半疑で聞いた。
 
 だが今は、嘘偽りなかったと信じ、無邪気に喜んでいるようだ。

「ほんにたわいない……」

 喜々としている男と貴婦人を見送る神官は、目を細めてほくそ笑んだ。

「手紙など、届けられず燃やされるのに。無邪気な子よ」

 エティアの王弟がこの僻地を痛く気に入ったのは、あの美しい貴婦人のせいでもあろう。

 神官が塔に招聘した「同志」が、つい最近呼び寄せた異国の女。あからさまにスメルニア人ではあるが。

「しかしこれこそ、好都合というもの」

 神官はおのが心中に、長年夢見てきた未来を思い描いた。

 壊れた橋を架けた暁には、この塔はスメルニアの軍勢に守られることとなる。

 エティアの王弟殿下はこれよりスメルニア人の妃を幾人も娶り、かの大皇国の帝の義弟となるのだ。

 かぐわしい薫香を漂わせる者たちは、言葉もしぐさもエティアの貴婦人とはまったく違う。

 だから少しでも慣れておくにこしたことはない。

「同志はあの女が室に入るのを狙うておるのであろうな……まあ、それも一興」 

――「モレー猊下」

 くくくと哂う神官の背に、低い声がふりかかる。

 ふりむけば。

「王弟殿下におかれましては、痛くあの婦人を気に入られたようですな」

 黒マントを羽織った老人が、杖をかつかつ鳴らしてこちらに近づいてくるところであった。

「これは黒猫卿」

 神官はにこやかな笑みを浮かべ、両腕を広げて同志を迎えた。

 同志は、親スメルニア派のひとり。スメルニアに本家を持つ、古くてやんごとなき家の主である。

「視察より戻りました。橋の復旧作業は順調にすすめられております」

 黒マントの老人は手短に本日の作業の進捗を述べ伝えると、深々と頭を垂れてきた。

 神官が手配してくれたおかげで、たくさんの人柱を確保できたという。

「さすがは猊下ですな。おかげさまで、私どもの軍勢もだいぶ増えました」

「死者の軍勢か」

「さようでございます」

 神官は頬の筋肉を引き上げ、顔を歪めたくなるのをこらえた。

 黒マントの同志は、黄泉の秘法を会得している魔導師だ。こたびの計画に協力する見返りとして、生贄の「魂」が欲しいと所望してきた。

 しかし部下から聞くところによれば、いけにえを基礎部分に埋めるまえに、その生き血をずいぶんと採取していたそうだ。

 魔術に使うのだと思われるが、耳に心地よい報告ではない。

「ともあれ」

 神官は作った笑みをはりつかせ、自信たっぷりに同志に告げた。

「王弟殿下をお守りして幾星霜、親スメルニア派の貴族は水面下で増え続け、今や十一人。ここに私兵を率いて集いし我ら四天王、そして王宮に在りし七人衆。今こそ一致団結する時ぞ。さすれば積年の祈願がかなうであろう」

「さよう。こたび、我らの願いは必ずや成就いたしましょうぞ」

 黒マントの老人が深くうなずく。

「エティアは、スメルニアの属国になるのです」


アバター
2016/11/06 21:59
不穏な空気が充満してますね。
アバター
2016/09/26 20:13
国家的陰謀に加えて死者の軍団とは、真っ黒な陰謀。
アバター
2016/09/24 02:13
脇役反乱の準備を進めていましたか。

さっさと潰さないといけませんね。




Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.