Nicotto Town



銀の狐 金の蛇4 「冬毛」(前編)

 絶世の美女の、切ない懇願。

 潤む瞳。ほのかに下がる秀眉。震える薔薇色の唇。

『お願い……』

 この貌(かお)にほだされない者など、この世にあろうか?

「いや、ないな。絶対ない……」
「ソム! 駅馬を借りましたよ。屋台でお弁当も!」

 輝く満面の笑顔の主が、湯気立つ袋を小脇にかかえ、馬をかぽかぽ引いてくる。
 質素なみなりにまったく似合わないその美貌は、まるで太陽の光のようなまぶしさだ。

「ふかしたての、雪見まんじゅうですよ」
「おお、この町名物のか。いい匂いだ」
「まずは街道をひたすら南下ですね。目的地までがんばりましょうね!」

 明るいはしゃぎ声。風にゆれる柔らかな巻き毛。
 手綱を持つ白い手の先できらめくのは、赤鋼玉のような淡いくれない――。

「どちらが前に乗ります? 手綱はあなたが? 私が?」
「前に乗りなさい。手綱もそなたが」
「それじゃあなたは何をするんです?」
「後ろからそなたを抱きしめる」
「ソムったら!」

 薔薇色の唇から漏れる笑い声を聞いて、ソムニウスは心底ホッとした。
 弟子の真顔の涙に師は折れざるをえなかった。
 あのいたましい顔。
 あれはこの勝気な子が、本当にぎりぎりせっぱづまった時にしか見せないものだ。

(かわいそうに、怖かったのだな。私に拒否されるのが)

 だからあんなに、一気にがんがん畳みかけてきたのだろう。
 同行を許可したとたん、弟子はこの通り。いつもの気の強い顔にからりと戻って、てきぱき仕切っている。
 馬に乗った師は、おのが前に乗って手綱を持つ弟子に腕を回して抱きしめた。

「この服は……イェイセフから借りたのか?」 
「ええ。最長老さまが、蒼き衣を脱いでいくようにと。破門されて還俗した体裁を取れ、とのことです」
「なるほど。市井の服など、持ってないものな」
「いいえ、一着ありますよ。小さすぎて、もう着られませんけど」

(ああ、赤いビロードの服だな)

 匂い袋の材料に使われそうになったあの服は、香りよい木箱に入れられて、ソムニウスの寝台の下に置いてある。すなわち、弟子がほぼ毎晩眠るところに。
 あの服は、師弟にとって決して忘れられぬものだ。
 かつて幼い弟子は、入院時に着るべしと定められた白い死装束ではなく。なんとあの服を着て、寺院にやって来た――。

「しかしなんだこの服は。肌触りが悪いな。シャツもマントもぺらぺらじゃないか。大体にして、男ものだし」
「だってイェイセフは、おじいちゃんですから」
「あいつにはちゃんと女房がいるぞ。女ものの服を貸してくれたっていいだろう」

 師は手に触れる弟子の服の感触に閉口した。ずいぶん擦り切れくたびれている。
 黒き衣に黒い毛織の外套をまとったソムニウスに対し、一番弟子はよれよれの綿のシャツとズボンにくすんだ色のマント。はたからみれば、弟子は奴隷か下僕にしか見えぬだろう。

「これでは寒い。毛織の外套を買ってやるから――」
「路銀が足りなくなりますから、だめです」

 ぴしゃりと叱られた師はそれではと、黒い外套で後ろから弟子をくるんでやった。外から見えぬのをよいことに、弟子の胸に手をしのばせる。

「ちょっと。くすぐったいですよ」 
「でもこうすれば、熱くなる」

 腕に収まる細い腰。指にふれるわずかなふくらみ。唇に触れる冷たい耳たぶ。鼻をくすぐる甘やかな香り……。


(この子の啓示は本当か? 寺院に帰すべきではないのか?)

 ふと、心のどこかでそんな声が聞こえたけれども。
 ソムニウスは弟子をひしと抱きしめ、そのかすかな胸騒ぎを抑えこんだ。

  匂い袋と同じ香りを放つ白い首筋に唇を這わせると。

「ソム……お願い……」

 昂ぶりを逃すように深く息を吐いた弟子は、目をうるませてねだってきた。

「つけて……」
「ああ、いつものか」

 師はゆっくり弟子の白い首筋をはみ、いつものしるしをつけてやった。

「もっと」
「うん」
「もっとつけて」
「うん。愛してる……」

 囁いてやると歓喜のため息が返ってくる。
 その反応が嬉しくて、師は白い首筋をついばむのに専念し始めた。
 けしからん計画は記憶の彼方。いずれまた発動するだろうが、今はその時ではない。
 今は純粋に。真摯に。恋人を味わう時だ。
 命をかけてついてきてくれた子を愛でなくて、いったい誰を愛でるというのだ?

 いつもの感触。いつもの匂い――。

 ソムニウスは、この上ない安定と幸福に耽溺した。 

(ああ……もう、離したくない……)




 

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2016/12/23 20:51
完全に恋人気分ですね。




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