銀の狐 金の蛇4 「冬毛」(前編)
- カテゴリ:自作小説
- 2016/12/23 18:56:01
絶世の美女の、切ない懇願。
潤む瞳。ほのかに下がる秀眉。震える薔薇色の唇。
『お願い……』
この貌(かお)にほだされない者など、この世にあろうか?
「いや、ないな。絶対ない……」
「ソム! 駅馬を借りましたよ。屋台でお弁当も!」
輝く満面の笑顔の主が、湯気立つ袋を小脇にかかえ、馬をかぽかぽ引いてくる。
質素なみなりにまったく似合わないその美貌は、まるで太陽の光のようなまぶしさだ。
「ふかしたての、雪見まんじゅうですよ」
「おお、この町名物のか。いい匂いだ」
「まずは街道をひたすら南下ですね。目的地までがんばりましょうね!」
明るいはしゃぎ声。風にゆれる柔らかな巻き毛。
手綱を持つ白い手の先できらめくのは、赤鋼玉のような淡いくれない――。
「どちらが前に乗ります? 手綱はあなたが? 私が?」
「前に乗りなさい。手綱もそなたが」
「それじゃあなたは何をするんです?」
「後ろからそなたを抱きしめる」
「ソムったら!」
薔薇色の唇から漏れる笑い声を聞いて、ソムニウスは心底ホッとした。
弟子の真顔の涙に師は折れざるをえなかった。
あのいたましい顔。
あれはこの勝気な子が、本当にぎりぎりせっぱづまった時にしか見せないものだ。
(かわいそうに、怖かったのだな。私に拒否されるのが)
だからあんなに、一気にがんがん畳みかけてきたのだろう。
同行を許可したとたん、弟子はこの通り。いつもの気の強い顔にからりと戻って、てきぱき仕切っている。
馬に乗った師は、おのが前に乗って手綱を持つ弟子に腕を回して抱きしめた。
「この服は……イェイセフから借りたのか?」
「ええ。最長老さまが、蒼き衣を脱いでいくようにと。破門されて還俗した体裁を取れ、とのことです」
「なるほど。市井の服など、持ってないものな」
「いいえ、一着ありますよ。小さすぎて、もう着られませんけど」
(ああ、赤いビロードの服だな)
匂い袋の材料に使われそうになったあの服は、香りよい木箱に入れられて、ソムニウスの寝台の下に置いてある。すなわち、弟子がほぼ毎晩眠るところに。
あの服は、師弟にとって決して忘れられぬものだ。
かつて幼い弟子は、入院時に着るべしと定められた白い死装束ではなく。なんとあの服を着て、寺院にやって来た――。
「しかしなんだこの服は。肌触りが悪いな。シャツもマントもぺらぺらじゃないか。大体にして、男ものだし」
「だってイェイセフは、おじいちゃんですから」
「あいつにはちゃんと女房がいるぞ。女ものの服を貸してくれたっていいだろう」
師は手に触れる弟子の服の感触に閉口した。ずいぶん擦り切れくたびれている。
黒き衣に黒い毛織の外套をまとったソムニウスに対し、一番弟子はよれよれの綿のシャツとズボンにくすんだ色のマント。はたからみれば、弟子は奴隷か下僕にしか見えぬだろう。
「これでは寒い。毛織の外套を買ってやるから――」
「路銀が足りなくなりますから、だめです」
ぴしゃりと叱られた師はそれではと、黒い外套で後ろから弟子をくるんでやった。外から見えぬのをよいことに、弟子の胸に手をしのばせる。
「ちょっと。くすぐったいですよ」
「でもこうすれば、熱くなる」
腕に収まる細い腰。指にふれるわずかなふくらみ。唇に触れる冷たい耳たぶ。鼻をくすぐる甘やかな香り……。
(この子の啓示は本当か? 寺院に帰すべきではないのか?)
ふと、心のどこかでそんな声が聞こえたけれども。
ソムニウスは弟子をひしと抱きしめ、そのかすかな胸騒ぎを抑えこんだ。
「ソム……お願い……」
ふと、心のどこかでそんな声が聞こえたけれども。
ソムニウスは弟子をひしと抱きしめ、そのかすかな胸騒ぎを抑えこんだ。
匂い袋と同じ香りを放つ白い首筋に唇を這わせると。
昂ぶりを逃すように深く息を吐いた弟子は、目をうるませてねだってきた。
「つけて……」
「ああ、いつものか」
師はゆっくり弟子の白い首筋をはみ、いつものしるしをつけてやった。
「もっと」
「うん」
「もっとつけて」
「うん。愛してる……」
囁いてやると歓喜のため息が返ってくる。
その反応が嬉しくて、師は白い首筋をついばむのに専念し始めた。
けしからん計画は記憶の彼方。いずれまた発動するだろうが、今はその時ではない。
今は純粋に。真摯に。恋人を味わう時だ。
命をかけてついてきてくれた子を愛でなくて、いったい誰を愛でるというのだ?
いつもの感触。いつもの匂い――。
ソムニウスは、この上ない安定と幸福に耽溺した。
(ああ……もう、離したくない……)

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- カズマサ
- 2016/12/23 20:51
- 完全に恋人気分ですね。
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