6月自作 雨降り 「涙」 (前編)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/06/30 22:30:05
天の涙が私を濡らします。
しとしと、しとしと、私を濡らします。
いいえ。泣いてなどおりません。私はただ、空から降るものを浴びているだけです。
「姫よ。姫」
私の足元にいるものが呻きます。しわだらけの手を伸ばし、私に爪を立てながら。
「姫よ。姫。我の血を吸え」
そんなことできません――
私の叫びは届きません。足元の、この暗い塊には聞こえないのです。
私のか細い声が暗い塊に届かないのは、どんより雨雲垂れ込める空のせい。
天から注ぐ雨の音が、私の願いをかき消すのです。
あなたのせいではありませんとも、黒い当主さま。
あなたの耳が塞がっているわけでも あなたの心が閉じているわけでもない。
私の泣き声が燃える魂に届かないのは、しとどに降り注ぐ雨のせい。
「桜の姫よ。人となりて顕現せよ」
いいえ。いいえ。
どうかその刀を首に当てないでください。あなたの紅の水はいりません。あなたのは……
当主さまは、私にたくさんのいけにえを捧げてくださいました。
私の足元はいつも人間の首を置かれ、紅にひたひた染まっておりました。とろりとしたその甘露を吸いあげてきたわが身はすでに、ずいぶん赤く染まっております。
四百の齢を越えたわが身。桜の樹木を削られた彫刻はずいぶんと割れ、ひびが走っておりました。 でもくれないの水のおかげで今はつやつやの若木のよう。
もう少しで。あと少しで。
『そなたは人間になれるぞ』
当主さまはうっとりそう仰り、命を吸う私を撫でてくださいました。
黒きこのお方が御領地のお家を離れた時、私は金箔を貼った棺に入れられて、いくつものお荷物と一緒に運ばれました。
びゅおうひゅおうと吹きすさぶ谷。そしてこの、にぎやかなメンジェールのいう国の王宮。
当主さまは私を片時もそばから離しませんでした。
金の棺に入れられた私は、おとぎ話に出てくる「捧げ姫」のよう。当主さまは蓋を開け、棺に横たわる私をうっとり眺めながら、くれないの水を注ぎます。
乙女の姿に彫刻されている私は、黒い当主さまにいつも囁かれるのでした。
森の奥宮でかの白猫王が、うるわしい捧げ姫を見つけたときのように。
『さてもうるわしき姫だ』
だからその都度、私は答えておりました。樹木のこの身を歓喜に震わせながら、白猫王のおとぎ話のように。
『ようこそいらっしゃいました。私は、あなたさまの花嫁です 』
その声は、聞こえていないとわかっていましたけれど。
白猫王は猫の勇者。魔物を倒した見返りに、緑の森の王となりました。森の民から奥宮を差し出されたとき、「捧げ姫」も一緒に捧げられたのです。
猫の王は姫を愛しました。姫が大さそりにさらわれた時は右腕を自ら切り落として救いました。
私の当主さまは白くはありません。真っ黒です。
黒い猫という意味の名を持つ黒い方。それでも私にとっては、まっしろな猫と同じ。
だから。
やめてください。
やめてください。
刀をご自分に振り下ろすのは――。
もしかして… この話も どこからか続いているのでしょうか。
後日、ゆっくりブログを掘り下げて拝読しますね。
ここだけを読むと悲鳴が悲鳴が聞こえるようです。
>あなたの耳が塞がっているわけでも あなたの心が閉じているわけでもない。
>私の泣き声が燃える魂に届かないのは、しとどに降り注ぐ雨のせい。
なんてうつくしく、かなしい、ゆるしのことばだろう。
胸を打たれるとはこのことか。
桜材は木目細かで、まるで紅雨が染み透ったような艶のある薄紅色で
それが血潮を吸って更に朱に、緋に、染まってゆくのですね。
背徳的な美。狂信的な理。
けれど、退廃とは正反対の所にある、皮肉にも「生き生きとした」美ですね。