銀の狐 金の蛇 15話 「浮遊」(前編)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/07/01 16:09:52
岩窟の寺院での修行は実に厳しい。
蒼き衣の見習いが導師となるには、数多の試験をこなさねばならない。
十代でなれる者は皆無。二十代前半でなれれば天才とみなされる。
何十段階もある試験の最後には、ほとんどの者が一度ならず足踏みする最後の関門がある。
幽体離脱。
導師たちの間では離脱状態になることを、「かりそめの死者になった」とか、「あの世の道に分け入った」などと表現する。
ゆえに。
(啓示の昏《くら》き道とは、このこと、だよな?)
ソムニウスは夢の啓示をそうだと解して、瞑想を始めた。
魂の状態ならば、封じられたこの室から抜け出すことができる。なぜなら魂にとって、この世の物理的な障壁はないも同然だからだ。弟子の渾身の結界にはさすがに近寄れないだろうが、効果範囲は扉周辺のみ。だから弟子のそばに、今すぐ行ける――
深呼吸しながらなんとか気持ちを落ち着ける。
煩悩を頭から叩きだし、無我の境地にいたらねば離脱はかなわない。
目を閉じ、とにかく何も考えないようにする。
何も。
何も。
何も――。
「……」
「……」
「……ふふっ」
口元が思わず緩む。
まずい。無意識に弟子のかわいい怒り顔を思い浮かべていた。
いやいかんいかんと、あわててかぶりを振って仕切り直す。
とにかく何も考えないようにする。
何も。
何も。
何も――。
「……」
「……」
「……くふふ」
また口元が緩む。
まずい。今度は弟子の、この上なく白く美しい裸体を思い浮かべていた。
またあわててかぶりを振って、あぐらをかきなおす。
「……」
「……」
「う……」
「うう……」
「うあああああ! 煩悩がぁ! ぬーけーなーいいいいい!」
がっくりうなだれた額がごつんと地につく。
「無我の境地って、何だ?! カディヤのことを考えるなとか、なにそれなんの拷問だ?! 無理だろそんなの! 絶対無理!」
導師たちは毎日午後に瞑想室にこもり、離脱に至る瞑想修行を行うべしとされている。体から抜け出られるほど集中すると、おのずと魔力がはねあがるからだ。
しかしソムニウスは瞑想室にこもる時にこっそり詩集を持ち込んで、古代の詩歌を読み漁ってしまうことが多い。
そんな万年サボり体質に加えて。
「いや大体にしてこれ、いまだかつて成功したことなんてあったか?!」
幽体離脱は導師となるために必須とされている技であり、できない者はたとえどんなに年をとろうが、韻律の技をどんなに駆使できようが、決して黒き衣をまとえない――はずなのだが。
二十七になった秋に最終試験を受けたとき。
試験官、すなわち長老たちは、なんと渋々、お目こぼしをして合格としてくれた。
ひとり弟子を溺愛してやまない師のヒュプノウスが、寺院伝統の技を駆使したからである。すなわち金の棒を七本用意して、最長老と長老たちの袖の下にしのばせたのであった。
「まさかお師様があそこまでするとはなぁ……」
黒き衣のヒュプノウスは、偉大な夢見の導師。
生前彼は、目に入れても痛くないほどチルをかわいがった。
それは溺愛も溺愛。ひとり弟子はただの一度も、共同部屋で寝たことがなかった。
師は毎日毎日、チルの体を洗ってくれ、髪をとかしてくれ、着替えの世話をしてくれ、靴紐を結んでくれた。ひとくちひとくちパンをちぎって口に入れてくれ。砂糖菓子をたっぷりくれ。蒼き衣のほつれをかいがいしく縫いかがってくれ。チルが鼻を噛んだ布まで嬉々として洗ってくれた。
弟子の当番仕事まで代わりにやろうとする、目に余るかわいがりぶりに、導師たちからつけられたあだ名は「王子のしもべ」。
チルの衣装箱は、幼い時には師がくれた遊戯札や駒などのおもちゃ、長じては宝石をあしらった装身具や香油であふれかえっていた。
チルが落第して落ちこぼれても決して怒らず、にこにこ顔なのはいうまでもなく。しょっちゅう花火や幻や水の彫像を作って見せてくれ、蹴鞠やチェスなど日がな一日一緒に遊んでくれたものだったが――。
『チル! 集中しなさい!』
『ぶええええ』
亡くなる数年前。死病に犯された師は、寺院中で一番厳しい師に豹変した。
『泣かないで魔法の気配を降ろす!』
『うええええ無理! お師さま、これまじで無理っ!』
『無理でもやる!』
『びええええ!』
「王子のしもべ」のあだ名を返上して行われたのは、連日徹夜のつめこみ特訓。
おかげで年甲斐もなくべそをかきながらも、チルは奇跡的に、二年でなんとか最終試験までたどりついた。
だがしかし。最後の関門、幽体離脱だけはさすがに、付け焼刃では突破できなかった。
「それでやむなく金七本……」
師はおのれの全財産どころかチルの衣装箱の中身も、勝手に全部売り払って工面した。
試験室でチルが失敗したその直後、居並ぶ長老たちに金棒を手渡したその手際のよさは、最終試験で絶対失敗すると予知していたからだろう。
なぜ師がなりふり構わず、そんなことをしたのかといえば――。
『わたしの余命はあといくばくもない、私のチル。それまでにおまえを一人前にしなければならぬ。絶対に!!』
遺されるひとり弟子の行く末を考えて、いてもたってもいられなくなったかららしい。
「親無し」になった弟子は別の師に引き取られる。
死に迫られた師は、それを是としなかった。ヒュプノウスのチルが他の誰かのチルになってしまうのが、どうしても嫌だったようだ。
『かわいい我が子を他の奴にくれてやるなんて。狼に羊をくれてやるようなものじゃないか! 我が子の柔肌が別の奴にべたべた触られるなんてっ』
『お、お師匠さま?!』
どうもヒュプノウスは、かわいい弟子が他の師から夜伽を求められるかもしれぬと懸念していたらしい。
たしかに寺院には稚児を愛でる趣味をもつ導師がいくばくかいる。いるのだがしかし……。
(テスタメノスが呆れてたよな。師の夜伽をつとめるのはぴっちぴちの、せいぜい二十歳ぐらいまでの子。もし私が他の師のものになっても、育ちあがってるから求められることなんてないのにって)
友人に言われるまでもなく、当時チルも、鬼気せまるような師の様子に唖然としたものだ。
(ほんとあの人、なんでか死に物狂いだったなぁ。賄賂を受け取ろうとしなかったレヴェラトールには、私が他の奴に無残に穢されるううって泣き叫んで、どうかどうかお助けくださいってすがってたもんな……いやでも私、当時三十手前だったんだけど)
師にとってソムニウスはいつまでも永遠に、十歳かそこらのかわいい「王子」であったのだろう。
ゆえに師はチルが決して、我が子が他人のものにならない方法を断行したのであった。
『ああ、私のチル……! これで真実、私はそなたの唯一の師。唯一の父となった……!』
晩秋、チルが転生式で黒き衣と導師の名を得た直後、師はみまかった。
チルが黒き衣をまとい、ぼろぼろ涙をこぼしながらおのれの手を握り締めるのを、歓喜の顔で眺めながら。
ひとりにしないでくださいと泣きすがったのに。
逝かないでと懇願したのに。
「黒き衣のソムニウス」をうっとり見上げた師は、自己満足はなはだしく、この上ない幸福を得た貌で、とわの船旅に出た。
チルを独りきりにして――。
「ほんと勝手な人だった……勝手に騒いで。勝手に死んで……」
ソムニウスも、かの師と同じ思いがある。
弟子への愛には恋人同士のそれだけでなく、親としての愛も混じっている。覚めないだろうと確信しているし、ソムニウスのカディヤがだれかのカディヤになるのは、絶対に許容できない。
(父としても恋人としても。カディヤの「唯一人の者」になる。それこそが、わが望み。わが遺志)
まあ、うん、あれだ。
無我の境地というのは求めれば求めるほど遠ざかるものだし、
危機的状況であればあるほど、男としちゃあ煩悩が滾るわけでして(コホン)
仕方ないよ。良くある事さ。( ´∀`)bグッ!