銀の狐 金の蛇 15話 「浮遊」(後編)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/07/01 16:23:25
遺書は、もう書いている。いつ死んでも大丈夫なように。もう何年も前から用意している。
(私はお師さまのようにひどい奴じゃない。我が子にして恋人たるあの子を決して悲しませたりしないぞ。お師さまに去られたチルと、同じ思いはさせない。絶対に独りにはせぬ)
赤い服を着た子は、ソムニウスの心の臓を奪った。
師を失って数ヶ月泣き伏したほどの悲しみと、その心に空いた大きな穴を埋めてくれた。
弟子がついにあの赤い服を脱ぎすてたあの日あの時を、ソムニウスは一生忘れないだろう……。
(木漏れ日。たそがれ。花の香……)
「やるしかない」
ごくりと息を飲み、ソムニウスは魔法の気配を降ろした。
『出でよ獅子犬!』
片手で弟子が作ってくれた匂い袋をぎゅっとつかみつつ、もう片方の手のひらに青白い光の玉を呼び出す。光の小精霊である。
(涙……一番星……白い煙……)
匂い袋を鼻に当て、弟子のほんのり甘やかな香りを幾度も深く吸い込んで、覚悟を決める。
「やるしかなかろうっ!」
夢見の導師は、精霊に命じた。
『我が胸を打て!』
刹那、おそろしい衝撃がびりびりと全身を襲う。怪我をしたところがじんと疼く。
精霊の玉が胸に飛び込んできたのだ。しかし威力が小さい。
ソムニウスは片膝をついて歯を食いしばり、もう一度命じた。
『打て! 打ち抜け!』
光の精霊が旋回し、弾丸のようにつっこんでくる。
体がもんどりうつ。目の前に火花が散ると同時に。
頭がぐいと引き上げられる感覚がした――。
(離脱は)
(似ているから)
(死ぬ時の状態に)
(似ているから……)
(こうすればきっと)
(きっと――)
『死なないで!』
どこか。えたいのしれない奥底から声が聞こえる。
この声は、とてもよく知っている子の声だ――。
『死なないで! いやだ! 死なないで、ソムニウス……!』
(木漏れ日。たそがれ。花の香……)
ぐるぐる渦巻く意識の奥底から、記憶の断片が昇ってくる。
(白い煙……赤い服……)
襲ってくるのは、ふわりとした浮遊感。
(成功したか? しかしこれはなんだ? ああ……これはかつて、死にかけたときの……『あの日あの時』の……記憶か)
死にかけている状態。
かつて経験したことと同じような状況に陥ったから、意識の表に浮かんできたのだろう。
(いや、今は思い出しているひまなどない。急がねば!)
ちらつく記憶をふり払い、ふと下を見れば。そこに在るのは、床に伸びている黒き衣のわが身。
なんとか、離脱に成功したようだ。
光の小精霊がふわふわ数回そのそばを旋回し、かすかな余韻をちりちり残して消えていく。
目下の体はぴくとも動かない。感電して心臓が止まっているおそれもあるが……
(まあ……大丈夫だろう。あああ、目じりにしわがー)
のんきに顔の皺が気になるのは、洒落にならぬ状態からの逃避。それ以外のなにものでもない。
若いころから老け顔だったとおのれを適当に納得させ、ソムニウスはもっと上へ昇ることを意識した。
とたん、視界が天井を抜けた。あっというまに礼拝堂の裏手にある厨房に出る。
狙い通り、地下室の床と壁を瞬時に抜けられたようだ。
(調理中か)
厨房にいる老人たちが大鍋で何かをぐつぐつ煮込んでいる。
匂いは……生身の体ではないので、感じ方がいつもと違う。普通に匂う他、なんとその色合いが目に見える。鍋からでているのは濃い茶色の湯気のようなもの。色の濃さは匂いに比例するようだ。
なんとも不思議な視界だが、今視えているこれは、実際に眼で見る「視覚」ではない。
五感以外の感覚で把握しているので、見え方も聞こえ方も、匂いと同じくどこかしら変だ。人の周りで淡く光って見えるのは、きっとその者の生気だろう。
料理を作っているのは当番制で働く奉りびとたち。しかしその足音は、乾いていて引きずるように重い。音が鳴るたび、靴から火花のようなものがはじけて見える。
「靴音」だ。つんつん鋭い形なのは、奉りびとがはいているのが、固い木靴だからだろうか。
(扉に触ってきた者の足音ではないな)
モノノケの足音はぴたぴた軽く速く、小気味よいものだった。ここにいる老人たちのものとはまったく違う。
「神撰《シェンチャン》の出来具合はどうですかな? そろそろできあがりますかな?」
最年長のロフ神官が、戸口から様子を伺ってきた。鍋をかきまぜていた老人が、へこへこと頭を下げて応対する。
「はい、ロフさま。鍋《ダゴファ》ひとつ分、まもなく炊きあがりますんで」
「祭壇に捧げたあと、下げて参列者に配らねばなりませぬ。鍋ひとつでは足りませぬぞ。それに払いの香を焚くようにと、国主様が仰せじゃ」
「そう仰られると思うて、材料のロンチーの実を集めてありますだ。でも国中の地下蔵を全部回って、これしか集められなかったんでございますよ。今年はどうにも、山の実りが悪うて」
厨房の隅の小鍋から、ほのかに甘い香りとともに淡いうす桃色の煙が見える。
その香りを感じ取ったソムニウスは驚いた。
それは、よく知っている子の匂い――弟子がいつもつけている香油と同じもの。
すなわちソムニウスが首に下げているあの匂い袋と、まったく同じ香りが小鍋から漂っている。
(産地など気にしたことはなかったが……)
弟子はとくに好んで、この香油ばかり欲しいとねだってくる。この山でしかとれないという特殊なものではないが、そこそこ珍しいものだ。
(偶然か? それとも、この地生まれの母親が常につけていたとか?)
母の匂い――無意識にこの香りを好むのなら、ありうる。
おのが想像に心中狼狽したソムニウスの眼下で、小鍋を覗きこむロフ神官が憂慮いっぱいのため息をついた。
「むう、これだけとは。では地下倉をみてきましょうかの。もしそこにもなければ、探して取ってくるよう男衆に頼むとしましょう。山の奥背の森になら、実っているやもしれませんからな」
老神官がそう請負いつつ姿を消すと、奉りびとたちはひそひそ言葉をかわしあった。
「厄除けのお香まで要る羽目になるとは、ハオの婆はほんに、洒落にならんことをしたものよ」
「しかしこれだけではミドウ全体にはいきわたらんな」
「今年は何もかも、不足じゃの」
「蛇の本家は、これでついに終わりだろうなぁ。次の後継者を出さねばならん婆が、蛇の姫さまが亡くなったあと頑固に養女もとらず、あのように狂ってしもうては……」
「国主さまがハオ婆をばかにして、とりあわんかったこともあるだろうけどな。それで婆は、かえっておかしくなったんだわ」
蛇の姫さまは若くして死んだゆえ、婆には孫娘もおらなんだし。そう老人たちはため息を吐きあい、うなだれた。
「ほんにどうするんじゃろな? こりゃあ、狐の本家が次も国主さまを出すことになるかね?」
「交互に国主をだすっちゅうしきたりは、変えたらいかんと思うが……こんどのことで蛇の本家はもう、|王家《ワングシ》とは認められんよなぁ」
「しかし狐の本家で次の国主さまになれるお人など、おるかの?」
その質問が出てくるや。老人たちはこのうえなく渋面になった。
「国主さまの一の姫は、とつくにの男と駆け落ちなすって生死不明じゃ。今回亡くなった若君には、子がおらん」
「そうなると順当にいけば、銀狐をはおれるようになったメイメイが、お世継ぎになっとったところじゃろうになぁ」
「士長さんちのメイメイなぁ……」
老人たちの口から、なんともいたましい息が漏れた。
「あん娘《こ》が、実は国主さまが外に作った姫さまだったとは。わしゃぁつい最近までまったく知らなんだ。てっきり士長さんちの、実の娘だと思っとったで」
ご高覧ありがとうございます><
ソムさんはもうどうしようもないwww
おっとり公家坊っちゃんですので許してやってください…
>若いころから老け顔だったとおのれを適当に納得させ
ソムニウスさんwww
後継になるには皆を納得させるだけの材料が必要になるでしょうね。
まして、それが例外ともなろうものなら……。
このような状況を意図的に作り出した者が居るとするなら、「彼(仮称)」にとってのメリットとは何なのだろう?
ご高覧ありがとうございます><
ですよね。あきらかに後継者を狙う人が出てきそうな状況ですよね。
この国では、クーデターが起きてもおかしくは有りませんね。