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邪馬台国のお話

小学校で邪馬台国について習ったとき、北九州説と大和説があってどちらも一長一短があってはっきり確定してないって説明された。

 

当時の中国と朝鮮は日本に比べて先進国で、朝貢していろんなことを学ぶ立場だったから門戸は日本海側を向いているのは当然で、潮流で大陸と行き来しやすい北九州や対馬、能登が発展するのは自然な流れだった。北九州説は一番近い北九州、大和説は瀬戸内海を通過して纏向へ向かうルート。今の感覚ならどちらも正しいように思える。気がつくまで移動の途中で記録に残されただけではと思っていた。

 

大昔の日本の船は上陸して陸を引っ張って神社で市場を開いたからあちこちに船曳とか大船渡といった地名が残っているね。和船は船底が平らだから道を引っ張って山を越えた。神社は船が入れる湊で湊がつく地名がたくさんあるね。

 

1989年大阪市市制百周年の記念行事で四條畷市の蔀屋北遺跡で発掘された木造船を復元し、「なみはや」として韓国釜山まで航海させた。もちろん、卑弥呼が難升米を魏へ遣わしたように人力で。しかし、「なみはや」は瀬戸内海を越えるために夜間は警戒船に引っ張ってったと記録にある。

 

瀬戸内海は穏やかな海と思われているかもしれないが、実は流れが速い。平均の海流は2ノットから5ノット程度。人力で漕ぐ場合、16人で漕いで2ノット程度。瀬戸内海ではほとんど進むことができない。帆船の技術は初期的なものがあったけれども、邪馬台国が大和にあったとしても西日本すべてを制圧していたとは考えられず(できていれば記紀に書くはずだからね)、大阪の淀川河口は明治期にオランダ人技師に滝を工事するようなものと言われるくらいの難しい工事で港を作ることは無理だった。

 

瀬戸内海を啓開して安全に通行できるようになったのは記紀通りなら5世紀になってから。雄略天皇が渡来人の力を借りて、澪つくしをおいて安全な航路を作り、風待ち湊を整備して初めて敵に襲われる心配がほとんどない航路になった。

 

日本は街道が整備されなければあちこちで山賊や海賊に襲われる危険な国だったからね。戦国時代、本能寺の変のあとで徳川家康が岡崎へ帰るのですら決死の伊賀越えをして穴山梅雪は討ち死にしたくらいだから。3世紀は推して知るべし。当然紀元前667年の神武東征は不可能だよね。瀬戸内海を通過できる船がないから。

 

ってことを説明されていたら歴史も面白かったんだろうけれど。この事実を知ったのが最近だから、専門が違うとなかなか踏み入れられないね。

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2017/10/12 15:58
>sueさん
小学生の頃に山奥なのに船とか湊とか地名があったのはなぜ?って先生に聞いて叱られた記憶が><
歴史はホントは面白いけど、受験で記憶教科になってしまって面白くないですよね。。。
九州はいろんな歴史の舞台になっていておもしろいところがたくさんですね。
熊本の地震のときは松山に帰っていて怖かったですが、東北も頑張っているから頑張って盛り上げて欲しいです^^
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2017/10/11 23:48
こんばんは。

邪馬台国\(@^0^@)/
やっぱりね、九州人としては、北九州にあったんだとうれしい。
何の根拠もなしにねw

世界史で言う四大河文明も、今の世界の中心ってわけでもないし、
邪馬台国が今の日本の中心付近になくったっていいよねと、ぼんやりと思ってましたが^^;
kiriさんが書いているようないろんなことから見てみると、なるほど~となっておもしろいです。

わたしの知識は、
あ、大昔の日本の船って陸を引っ張ってたのね^^
くらいのところで…なんかすみませんw




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