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楠木正成はなぜ負けた?

東京にある有名な銅像をグーグル先生に聞いてみると西郷隆盛、大村益次郎、楠木正成と出てくる。すべて明治以降に設置されたもの。

西郷隆盛は西南戦争で新政府軍に敗れて城山で自刃。その後明治22年に恩赦で復権した。西南戦争は一部には不平を抱く士族を西郷が政府から一掃するために兵を挙げたとも言われている。

大村益次郎は第二次長州征伐のときに幕府軍をさんざんに破り、戊辰戦争でも活躍。新政府の軍制改革の途中で急激な改革に不満を持っていた元長州藩士に暗殺された。

楠木正成南北朝時代の悪党で湊川の戦いで足利尊氏に敗れ自刃。江戸時代に見直されるまで忘れられていた武将。というか郷士なのかな。

楠木正成は新田義貞、北畠顕家らとともに南朝の戦いの一翼をになった。もともと足利高氏(のちに後醍醐天皇の諱の尊治の偏諱を受けて尊氏)、新田義貞らととともに幕府軍と戦っていたが、建武の新政に不平を抱いた足利尊氏・直義らが鎌倉で謀反を起こし新田義貞を撃破。一度は新田義貞、北畠顕家、名和長年らとともに足利勢を追い落として都の奪還に成功する。といっても清和源氏の血筋の新田義貞、村上源氏の血筋で公家の北畠顕家と比べて身分が低いことから戦功は高く評価されなかった。

しかし、足利尊氏と直義の兄弟は細川氏、土岐氏、河野氏らを味方につけて西国から反攻。新田義貞の軍を引かせた。慌てた後醍醐天皇は謹慎中だった楠木正成を呼びだして足利尊氏に当てる。楠木正成は後醍醐天皇を比叡山に臨幸させて京都で新田義貞と合流して迎え撃つべしと進言したが、坊門清忠が天皇を二度も臨幸させるとはと反対し楠木正成は摂津で迎え撃つこととなった。

湊川で新田義貞軍とともに足利勢と戦った楠木正成は新田勢と分断されたあとに足利直義の軍に突撃を繰り返しあわや足利直義を討つ寸前まで追い込んだがその後弟の楠木正季らと差し違えて自害。戦功があった伊予国の大森彦七は報償として讃岐一国を与えられている。

ところが、高田崇史さんの「軍神の血脈」の中でゲリラ戦を得意とする楠木正成が無謀としか思えない正面突撃を何度も行っていること、首実検では楠木正成の首しか確認されていないこと(弟の楠木正季は記述されていない)、楠木正成の顔を知っていたのが足利尊氏しかいなかったこと、そして大森彦七は伊予国で楠木正成の亡霊と言われる鬼女に悩まされていたことから、楠木正成ら楠木勢は敗走して自刃したのではなく、大森彦七の首をみずからの身代わりとして伊予国に落ち延びた可能性について書いている。

彼ら悪党が得意としていた鉱山開発で別子銅山を開発し住友が明治期に大きく成長した。だから住友は郷土の英雄で住友の基礎となった別子銅山を開発した楠木正成の銅像を二重橋近くに建立したのではないかってね。

不思議なつながりだね。

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2018/01/18 14:36
>Lilyさん
楠木正成については覚え書きなのでしっかり調べてからまた載せますね^^
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2018/01/17 22:31
いつもながら、勉強になりました。ありがとうございます<m(__)m>





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