Nicotto Town



銀の狐金の蛇27 「夢鏡」前編

 
「遺言? チル、それは天使のために残したんだね?」
 師の黒衣がうねっている。熱を帯びてゆらゆらめらめら。
 高温の漆黒が舞っている。
「別れの詩でも書いたのかな?」
「ち、ちがう! 絶対忘れないって書いたんだ」
「ずいぶん感傷的だなぁ」
 くすくす笑いが頭を撫でてきた。
「く……!」
 チルは身を焼いてくる熱にひるんだ。
 黒き衣が、チルが逃げないようにと狭まってくる。熱く熱く、じわじわチルを焼いてくる。
「チル。お眠り」
 強烈なまどろみが降りてきたので、チルはウッと身を縮ませた。息ができない。いや、もう死んでいるからこれは「意識をたもてない」感覚なのだろう。
 視界が再び、完全に黒に染まった。意識が渦を巻いて、胎児のようにゆらりゆらり回転し始めると――目の前にはるか昔の記憶がたちあがってきた。

『おしさま、これ、なんですか?』
『見ての通り箱だよ、チル』
『毛皮ふかふか、です』
『白テンのをいっぱい敷きつめた。ここの冬は寒いからね。上にはこの毛布をかけて寝るといい』
『ふわふわ……』
『共同部屋になんて寝せないよ。いつも一緒にいようね、私のチル』
『いつもいっしょに……』

(夢送り……だ)

 これは師との思い出。さきほど、カディヤとの記憶の玉に圧倒されて、ほとんど光のごとく過ぎ去っていったものだ。
 ヒュプノウスはかつての師弟の幸せな記憶をもう一度、チルに見せるつもりらしい。チルの世話を焼いた優しい師の姿を、次々と。

『ほら、鼻をかんで。おもいっきり、ふーんってするんだ』
『うー』
『あはは。鼻から息が出てないよ、チル』

 やわらかで美しい師の顔。かつて我が目にいっぱいにとらえたものが目の前に広がる。こみあげてくるのはなつかしさと。甘酸っぱい思い……。
 
『ほらできた。これで靴紐はほどけないよ』 
『ちょうちょうみたい』
『そうだねえ。今度は星みたいな形に結んであげようね』

(くそ。いまさら思い出しても……)
 黒いまどろみの中でチルはもがいた。
 師はチルに、真紅の天使のことを忘れさせたいのだろう。
(思い出しても……)

『かわいそうに、こんなに手を赤くして。洗濯当番がんばったんだねえ』
『ふえ、おしさまの手あったかい』
『チル、愛してるよ』
『ひゃ! おしさまの胸もあったかい』
『寝床であっためてあげよう。ずっと一緒だよ、チル。ずっと……』

(思い出しても――!) 
「いまさらだ!!」
(私のこの怒りは。哀しみは、消えぬ――!)
 チルの両手からするどく長く、爪がのびた。攻撃的な意識の具象化だ。意識の産物だから、足りない指にもちゃんと指が生え、そこにも針のような爪がみるまにのびる。
 チルは歯をくいしばり。
「ううう! うああああっ!」
 その鋭い武器で目の前の夢を一気にひき裂いた。
 師に抱きしめられる、チルの姿を。
「うそつき!!」
 甘い記憶を両手でがむしゃらに払い、チルは怒鳴った。
「うそつき!! ずっと一緒にいるなんて、まっかなうそだった!!」
 刹那、全身をさいなむ漆黒が熱を失う。びくりと止まって凍りついたかのように、熱いものが引いていく。
「愛してるなら……ほんとに愛してるなら、片時も、はなれてはいけないんだ!」
 熱を失っていく闇にむかって、チルは怒りをぶつけた。
「チルをひとりにするなんて、絶対しちゃいけなかったんだ!」
「チルそれは……」 
「病気のせいだっていいたいのか?! 不治の病がなんだ! 導師なら、たとえ死んでもそばにいられるだろ! 寺院の結界が強くたってなんとかできる! その気があるなら!」
 ぎんぎんと闇の中に声を反響させながら、チルはほぼ確信に近い疑念をぶつけた。
 昔からずっと抱いてきた、ひそかな悲しみと。暗い恨みを。 
「お師様はチルを置いていった。チルがあんなに願ったのに、手を尽くしてこの世にとどまろうとしなかった。お師様、あなたは会いたかったんだ。天に昇って、もう一度ある人に会いたかったんだ。あの人……お師様の、お師様に! そうだろ?!」
 周囲の漆黒が揺れる。
 動揺しているのだろうか。図星だったのだろうか。
 返事がないということは、おそらくそれで正しいのだろう。
「あなたは必死に隠してた。けどチルは知っていたさ。師との思い出を語るあなたの目がうっとりしてたのを。寝言で何度かその名を呼んでたことも。それに大事に大事にとっていた箱があった。死んだら一緒に荼毘で焼いてくれと言われた箱だ。炎にくべたとたん、黒き衣の導師の姿が一瞬うかんだよ。あれは、お師様のお師様だろ? あなたは……あなたの庇護者を忘れられなかった。だから、死してその魂に会いに行こうとしたんだ! そうだろ?!」
 チルの前にぽわぽわとやさしい師の姿が浮かんでくる。
 チルを抱きしめていたり。抱き上げていたり。一緒にお菓子を食べたり。すごろくで遊んでいたり……
 小さな子は必死に、爪で幻を裂いた。何度も浮かび上がってくるそれを、がむしゃらに引き裂いた。
 怒りに任せて、鬼気迫る勢いで。
   
「ちくしょううううっ!」

 泣き声にも似た雄たけびをあげると。幻はようやく泡立たなくなり、哀しげな声が降ってきた。
「たしかに……私がすんなり死んだのは、わが師に会うためだ。でももう、とっくに別れを告げた。チルが一番だから。チルと一緒に天上で暮らすからと、別れを告げた」
 悩んで、迷った。
 百発百中の夢によれば、チルのもとには将来、赤服の天使がやってくる。
 ならば身を引くのがよいのでは? 
 本当に愛しているなら、愛する者の幸せを願わねばならぬのでは? 
「だから死んだんだ。身を切るような思いで」
「嘘だ! 笑って大満足で逝ったじゃないか!」
「わざと笑って死んだんだ。チルを思い切ろうとしてね。でも雲間に登ったときに、わが師に問われた。なぜにここへきたのだと。私自身の幸せはどうするのかと。これでいいのかと。気づけば、私は師にすがって泣いていた。そのとき悟ったんだ。師を愛する心より、チルを愛する心がはるかに強いのだと。だから……」
 師がうろたえている。黒い衣がするすると離れていく。
 チルは、怯まず吠えた。こんなことで迷うなんてありえないと思いながら、即座に怒鳴り返した。
「去られたチルが、どんなにつらかったか。どんなに気が狂いそうだったか! わかってるのか?! 許さない! このことだけは、絶対許さないっ……!!」
「チル……」
「あのとき私は心の底から誓った。いつか夢に見る天使に出会ったら、決してこんな思いはさせぬと。置いていくなんて、絶対にしないと! お師様、あのときあなたは、チルをあきらめたらいけなかったんだ! そんなこと、絶対しちゃいけなかった。絶対に! だからいまさら迎えにこられたって……もう、もう……」 
 チルの姿がみるみる変化する。小さな少年から、あっという間に、もとのソムニウスに。
 黒き衣をまとった大人の男に。

「もう、遅いんだ!!」

 その叫びは幾重にも重なり反響した。
 体の膨張と同時に、鋭い十本の爪が周囲の闇を刺す。
 周囲をとりまく黒い衣がすうとうすれ、白い雲間が見えてくる。
 雲の上に大きな城のような建物が建っている。なんと、雲でできたものだ。
「チル……毎日こつこつ、雲を寄せ集めてつくったんだよ」
 師の声は、悲しみに沈んでいた。
「君と一緒に住もうと、こつこつ……」
 チルはふわっと、宙に投げ出される感覚を覚えた。
「チル、まぶしい。まぶしすぎて、触れていられない。その泣き顔……見てられないよ……」
 

アバター
2018/02/25 18:08
過去の事を思い出しましたかね。




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