Nicotto Town



銀の狐 金の蛇28 「女神」前編

(なんてことだ、湖全体に幻が映るとは) 

 幻影映る湖の中で、ソムニウスはおろおろ泳ぎまわった。
 はずかしさのあまり水面を掻いて幻を小さくしようとするが、寺院の光景は、まったくゆるがない。
 当然だ。
 おのれは魂の状態なので、物理的なものには一切干渉できないのだ。
 弟子が顔を真っ赤にするのではないか。怒るのではないか。
 おそれと懸念はしかし、弟子の叫び声にかき消された。

「『カディヤのソムニウス』! もどってきて!!」

 
(おおおお!!)
 ソムニウスは喜びに打ちふるえた。
 神聖語によって紡いだ遺書の言葉は、「鍵」によって開かれる。
 正しい名前。
 ソムニウスが設定したその名を、カディヤは迷わず叫んでくれたのだ。
(私のカディヤ。愛している! 愛している!!)
 編まれた韻律の力が開かれ、夢見の導師は一気におのが体に引き戻された。意志が命じる前に、自然と目が開く。すんなり復活できると思いきや。
(あ、熱い!? なんだこれは)
 そうは、問屋がおろさなかった。
 我が身がぼうぼう燃えている。脳を刺すのは、断末の痛み。紅蓮の光がまぶしすぎて、周囲がまったく見えない。肌はすでに熱波にやられ、黒く変色しつつある。
 必死に手足を動かし、火を消そうとするも、じりじり体を焼く焔はまったく消えない。
(なぜ炎がこんなに出てるんだ! う? あれは……)
 燃えるソムニウスの目の前に、ぼうっと輝くものが立ちあらわれた。
 炎の中でゆらめくそれは、なだらかな曲線を描き、女性の姿形をかたどっている。
(こ! この人は!)

 十数年前、病に倒れたとき。カディヤに赤い服をかけられたソムニウスは、今のように体に引き戻されて蘇った。
 体に効いたのは、ディクナトールのレナンが調合した白い燻煙。はたから見ればそんな状況だったが、実際はちがう。
 ソムニウスの魂をひきもどし、完全に体を癒やしたのは……

――『二度目ですね』

 この人だ。炎がかたどるこの女性。かつてカディヤの悲しみの悲鳴に召喚され、寺院の結界をいともたやすく射抜き、死にゆくソムニウスをよみがえらせたのは。まさしく、この女性であった。
(またご尊顔を拝せるとは光栄で……。うう、声が出ない! 喉が焼かれたか)

 カディヤを得てから丸一年間、若きソムニウスは信じていた。
 赤い服の加護の力は、カディヤの思い込み。服を脱げないのは、単に心の問題だと。だがあの日あのとき、知ったのだ。赤い服の加護は、「真実」であることを――。

『わたくしが怒っている理由がわかりまして?』
(お、怒ってらっしゃる? だから私を焼いているのか)
『あなた、わたくしの子をひどく泣かせましたわね?』

 赤い炎の閃光がきらめき、光の中に女性の容貌がくっきりうかぶ。
 小首をかしげて微笑んでいるのは、カディヤにそっくりな長い巻き毛の人。
 切れ長の目は、まるで狐のよう。髪を白くしてまとめたら……
(あああ……ユインの国主どのにそっくりだ)

『あなたのおかげで、私の子は助かりましたけれど。なんなのこのていたらくは。胸にざっくり大穴だなんて、ちょっとひ弱すぎませんこと? 変な死神はあらわれますし』
(すみません。しかし私は、ごくふつうの、生身の人間でして……)
 声の出ない口がぼろりと崩れる。すさまじい痛みが全身を走る。ぼうぼう燃えている体が闇色に黒ずんでいく……。
『わたくしの子を預けるにふさわしいか、ちょっと試してもよいかしら?』
 いわれるがいなや炎がいっそう周囲に巻き上がり、ひゅうひゅうと音をたてる。胸元で手を合わせる女性のわき腹から、翼のついた手が広がりあらわれた。その手には、燃え盛る長い槍が握られている。
 その槍が。目にも止まらぬ速さで、ソムニウスめがけて突き出された。
(ぐう!)

 焦げゆく体に燃える槍が刺さる。
 ソムニウスはなんとか衝撃をこらえ、女性の前に両膝をついた。
 槍の刃のまわりでぼすぼすと小さな炎がもえあがり、はじけるように小鬼が出てくる。手のひらに乗るほどの小さなものが何体もだ。
(韻律が使えれば、苦労はせぬものを)
 小鬼たちがおのが体に牙をたててくるのを、ソムニウスは耐えた。槍の穂先からどんどん出てくる鬼の猛攻を、夢見の導師は耐え続けた。かじられた右腕がどそりと落ちる。
(あっ! まずい!)
 ソムニウスはあわてて、まだかろうじてつながっている左腕でざくざく膝もとの地を掘りはじめた。こげゆく左手と落ちた右手からあたふたとはずしたものを、必死に地に埋める。
『あら、なにをしているの?』
(焼かれるのは、しのび、ないので)
『それはなに?』
 輝く女性が鋭く問う。夢見の導師は身振り手振りでなんとか、伝えたいことをあらわした。
(てぶくろ、です。あの子が、わたしに、くれた、のです。わたしの、ために、いっしょけんめいさがして、くれた!)
『まぁ……』
(うしないたく、ない、んです!)
 女性の顔のあたりから、こおっとうれしげな息吹が吐きだされた。 
『では、その大事なものを守って見せて』

 女性の両脇にある炎がかたまり、あたかも鳳凰のごとき鳥が現れた。
 鳥が羽ばたくと同時に、無数の羽が針のように飛び出す。
 ソムニウスは地に埋めたものをかばうように身を投げ出した。ざすざすと羽が突き刺さり、気が遠くなるような痛みが襲ってくるも。
(う……うおおおおお!)
 夢見の導師は動じなかった。黒焦げの体から気を放つ。突き刺さった羽が四方に飛び散り、火の粉と化して消えていく。
(消えろ! 消えろ!消えろ! 精霊ども!)
 左右から飛んでくる鳥たちを、ソムニウスは気合で放った魔法の気配で女性の後ろに押しやった。
 意思だけの力で。

『すばらしいわ。満足よ』
 燃ゆる槍が抜かれた。
 どうと、燃え盛るソムニウスはその場に倒れた。周囲はすっかり炎に囲まれ、あたりにはめらめら揺れ踊る焔しか見えない。そのまばゆさを映すソムニウスの目が、ついにぶしゅうと焼けつぶれたとき。
『今度はもう少し、強度のある体にしませんとね』
 槍持つ手をしゅるりと消した女性は、指折り数えるように嬉々として述べたてた。
『肌は金剛石。その目は猫目石にしましょう。髪は鋼で歯は真珠。心の臓はアダマンタイト。これならそうそう、こわれませんわ』
(え!? ちょ、待って! 全部生身でお願いしますっ!)
 声は出ないが、望みは通じたようだ。 
 身をさいなむ灼熱がふっと消え。それから徐々に視力がもどってきた。
 炎の感触も。灼け焦げた匂いも。遠くなりかけていた音も。
 そして、声を出す力も。
「おお……!」
 よろと起き上がると、真っ黒に焦げた肌がぽろぽろ膝に落ちてくる。
 落ちた腕がずずと動いてつながり、煤が落ちて白い肌があらわれてくる。
 血潮の道が幾本も踊るように動き、裂けた心臓を、そして穴の開いた胸を縫っていく。
『それにしても口惜しいこと。わたくしの姿は、あの子には決して見えませんの。でも心配だから、これからずっと下界にとどまろうかしら』
「いえ! そのようなお気遣いはされずとも!」
(声)
(声が蘇った!)
 音こそは、言葉こそは、世界のはじまり。何にも勝る「力」だ。
 再生する導師はさっそく女性にかしづき、その「力」を駆使した。
『そんなにかしこまらなくともよろしくてよ?』
「いいえ。大精霊と同化しているあなた様は、|天《あめ》の女神。それ以前に、あなたは私の伴侶の、尊きご母堂であられる。ゆえに天よりも星よりも、私はあなたを崇めましょう。その偉大なるお力、わが身にしみてございます。うるわしきかんばせ、その真光の輝かしきは幾千万の星とてかないますまい――一の姫様!」

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2018/02/27 15:34
甦るのは良いのですが、今度は何になるのですかね。




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