Nicotto Town



銀の狐 金の蛇29 「青き花」(前編)

「ソム……」
 熊の毛皮がもふりと動く。
 あたたかな毛の下から、白い腕が伸びてきた。
 つややかに光る、くれない色の爪。
 寝台にねそべるソムニウスは微笑し、その手をとって口元に近づけた。
 やさしく口づけてやると、毛皮の下から甘やかな息がもれてくる。
「宿泊代がタダって良いよなぁ」
 恋人の手から手首に唇を這わせ、きゅっと力を入れて跡をつけてやると。
 歓喜の吐息とともに毛皮から白い体がするっとあらわれ、ソムニウスに抱きついてきた。
「幾日でも、泊まっていたいです」

 分厚いしっくい壁。天井をささえる太い梁。窓をおおう木戸はぴたりととじていて、この部屋はとてもあたたかい。真横の壁にはまる暖炉が、ばちばち明るい炎をあげている。 
 ソムニウスは今宵、この古い家屋を丸ごと一軒借りた。
 ここはだれも住むもののない家だ。古い鉱山の入り口に建つ番小屋で、調度品も寝台も古びてほこりを被っていたが、なんとか使える。
 すぐ目の前の鉱山には、鉱夫のための岩屋の住まいがある。
 そこに今日、ひと組の若い夫婦が住みついた。たぶん彼らもほこりっぽい寝台で、甘い夜をすごしているだろう……。



 レイレイとフェンが身を落ち着けたのは、エティアの大街道沿いにある都市メンヌから少し離れたところ。小さな鉱山跡だった。
 洞窟か、鉱山か。
 ソムニウスは街道を北上しながら隠遁しやすいところを探した。
 メンヌの|旅籠《はたご》で廃鉱山の噂を聞き、さっそく訪れてみたら、住人はゼロ。街道に添うように走る山脈にほど近い廃鉱山の村は、なかば森に侵食されていた。
 世捨て人となって生きねばならぬレイレイたちが住むには、ここはうってつけだ。番小屋のそばには、雑草だらけの畑や、清水をたたえる井戸がある。街にも近い。畑と、狩りの獲物でなんとか暮らしていけるだろう。
 しかしふたりはこの番小屋ではなく、鉱山の中にある、鉱夫用の住居で寝起きすることをえらんだ。
 明らかにユインの血のせいだ。穴の方が落ち着くと、ふたりは口をそろえて言うのだった。
「鉱山の中にも役立ちそうなものがたくさんあったな」
「ええ。思いのほか、豊かな暮らしができると思います」
 鉱山には堀りつくされた穴がたくさんあり、とくに下層部には水がたまっていて、壁面にいろんなコケがびっしり生えていた。あたかも寺院の地下の鍾乳洞を思わせる植生に、夢見の導師はおどろいた。
『孤独のトリオンが喜びそうだなぁ』
『ソム、見てください。花が咲いてます』
 灯り球で壁を照らした弟子が、うれしげに指し示したのは……棚田のような岩面をびっしり埋める、青く小さな花。それはさんごのような細かい枝の低木で、なんとも典雅な香りを放っていた。
『ソム、これは薬になるんですよ。花をいぶしたら熱病にとても効くんです』
『この香りはもしや……』
 匂い袋と同じものではないか。
 目をみはる師に、弟子がうれしそうにうなずいた。
『ええ、この花の香りが、寺院のものたちの熱病を癒やしたのです。花が終わって実になると、もっと香りが強くなるんですよ』
『ユインにもあったぞ。なるほど、穴の中に生える林でとれるのか』
 これはユインでは厄払いの香として使われていた。弟子は母親の匂いを好んで身につけているのだと思ったが、どうもそうではないらしい。かつてソムニウスの命を救ったものだから、というすばらしい理由からのようだ。

 鉱山前にある広場で、ソムニウスは神官のまねごとをした。
 レイレイは花嫁衣裳に袖を通すことを躊躇したが、なんとか説得した結果、ヴェールだけ被らせることができた。真紅の布で作られたその顔隠しには、数百ものみごとな花の刺繍が刺してあった。
 師が祝詞を唱える間、弟子が若い二人の晴れ姿を、小さな鏡の中に閉じこめた。幻像にして保存したのである。
 鏡はこれからユインへ送る予定だ。レイレイの両親もフェンの両親も、永遠の愛を誓いあった二人の姿に、少しは安堵してくれることだろう。
「おなじ穴倉でも寺院とは大違い……帰るのがいやになりますね」
「まったくだ。下の子たちが寺院で待っていなかったら……」
「ふふ。ここに住みつくのもありって感じですね。苔を売る薬師になるのもいいかも」
「その知識は私にはないよ。私に分かるのはせいぜい数種類だ」
 弟子の腕に熱心にしるしをつけながら、ソムニウスは淡い願望を抱いた。
 四六時中飛んでくる呪いなど一切気にせずに、愛する人と自由に、こんなところでのどかに暮らす……
 それ以上の幸福があるだろうか?
 若い夫婦は、一からこの村を作りなおす創造者になる。
 新天地でのくらしほど、希望に満ちて魅力的なものはない……。
「まったくうらやましい。我々は死者と同じ、枯れすさんだ墓守だもんな」 
「あら。ぜんぜん枯れてないように思いますけど」
 弟子が笑って、唇を近づけてくる。
 ソムニウスは微笑み、弟子を引き寄せた。 
 ユインではよく我慢できたものだ。そうおのれを褒めたくなるほど弟子の体は美しく、愛でずにはいられない……。
 いつもは食われる感覚にさいなまれるのだが。今宵のソムニウスは、完全に攻め手だった。いったい何度熱を放っただろうか、熱き衝動は衰えを知らず、恋人をひどく啼かせてむさぼった。もう許してと、悲鳴を出させるほどに。
 そうしてソムニウスはとろけながら眠りに落ちた。
 この上ない至福をかみしめ、のどかでゆたりとした生活を夢想しながら。
 とろとろと、まどろみの中へ落ちていった。




 ……一面、銀色の湖が見える。きらきら輝く銀色の鏡面。
 ユインに新しくできた、あの湖だ。
(ぬ? また……?)
 夢の中の光景を、ソムニウスは首をかしげながら見回した。
 すべて終わったはずなのに。
 なぜ視えるのだろう?

 『今宵、月は輝き木々を焼く』

 澄んだ歌声があたりに鳴り響く。
 それはあの、不死身の少年の声。最長老レヴェラトールその人の言霊だった。
(親書に記された予言。なぜに?)
 不死の少年はりんりんと鈴を打ち鳴らすような声で歌っていた。 
 暗いとも明るいとも判じられぬような、不思議な調子で。なんとも不思議な歌詞を。

『黒の息吹が未来をもたらす
 干上がった水は満たされて、
 多くの舟が浮かぶだろう――』

(この予言は、成就したはず)
 なのになぜ、夢に出てくるのだろう?
 黒き衣の導師がユインの未来をつくった。
 犠牲者は出たが湖ができて、かの地は水不足から救われた。あの首のない神、トゥーが、これからもかの地を潤すのだ。

 なのになぜ?

 湖の岸辺から、煙があがる。まっ白い煙だ。
 たそがれが、銀の鏡面をうすくれないに染める。
(木漏れ日。たそがれ。花の香……)
 なんともよい香りが鼻をつく……。
(涙……一番星……白い煙……)



 閉じた木戸がぶ厚くて、目覚めたソムニウスは今が朝か夜かわからなかった。
 暖炉の火は消えていて、種火がぶすぶすくすぶっている。
 弟子はすでに起きていた。熊の毛皮の下でソムニウスの胸にひたと寄り添い、胸の匂い袋を指先でいじっている。
 その顔は血の気がなく、青白い。目にはうっすら涙が浮かんでいる。
 たちまち師は、弟子の貌がいわんとすることを読み取った。
「そなたも視たか」
「はい」
「回数は?」
「山を降りてから毎日。はじめ、どうして視えるのかよくわかりませんでした。もうすべて解決したことなのに、と。でも、花の香りが……あの青い花の香りがするんです」
「ふむ……私と同じだな」
 二人の懸念は現実となった。
 ほどなく若き夫が青い顔で番小屋の扉を叩き、師弟を呼んだ。
 レイレイが、熱を出しているという。
「まさかこれは……」 
「くそっ!」


 

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2018/02/28 19:06
どんな病気にかかったのですかね?




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