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鎌倉時代ってどんな感じだった?

「鶺鴒よこの笠叩くことなかれ」 正岡子規

鎌倉の歴史を知れば知るほど、この句を見ると泣けてくる。近代俳句は子規の弟子の高浜虚子が客観写生を主張して花鳥諷詠へと進んだことで風景写生のような句がもてはやされるようになったが、上の句は子規が歴史に思いをはせ優しさと畏れがこもっている。

この句は明治25年に子規が伊豆修善寺に旅行したときに、源範頼の墓に笠をささげて詠んだもの。現在は屋根があるが当時は雨の日には笠をかぶせたくなるほど野ざらしだったのではないか。岡本綺堂は昔は片手で押し倒せそうだったとも話していたらしいからね。源氏が幕府を開いた本拠地だよ。いくら頼朝の勘気を被っていたとはいえ。

源範頼は建久4年(1193年)8月17日に謀反の罪で修禅寺脇の信功院に幽閉され、翌8月18日には梶原景時、結城朝光、仁田忠常らが率いる500騎ばかりに攻められ、自刃している。

「此の里に悲しきものの二つあり範頼の墓と頼家の墓と」 正岡子規

修善寺は源範頼だけではなく第二代将軍源頼家の墓もある。

源頼家は建仁2年(1202年)に征夷大将軍の宣下を受けるが翌年病気のため将軍位が千幡(源実朝)へ移り、頼家は出家。北条政子によって修禅寺に幽閉されて翌元久元年(1204年)7月18日に北条氏の手勢によって入浴中に殺害された。

「神の時空 鎌倉の地龍」 高田崇史著 講談社ノベルスによると鎌倉時代は謀殺と暗殺の時代だった。平治の乱以降の年表を見ると。

永暦元年(1160)義朝殺害。頼朝伊豆へ配流。

治承4年(1180)頼朝、挙兵。

養和2年(1182)伊豆で頼朝の命を狙った伊東祐親、自害。

寿永2年(1183)頼朝挙兵に駆けつけた上総介広常、殺害。

寿永3年(1184)木曽義仲、義経・範頼らによって殺害。

元暦元年(1184)義仲の子・義高、斬殺。甲斐源氏・一条忠頼、暗殺。義高を斬殺した藤内光澄、梟首。

元暦2年(1185)壇ノ浦において、平氏滅亡。

文治元年(1185)義経の義父・河越重頼、殺害。

文治2年(1186)頼朝の叔父・新宮十郎行家、殺害。頼政の孫・有綱、自害。義経と静御前の子、由比ヶ浜にて殺害。

文治5年(1189)義経、奥州で自害。義経を攻めた藤原泰衡、殺害。

建久4年(1193)曾我十郎祐成、五郎時致、工藤祐経を討つ。十郎、斬殺。五郎、斬首。曾我兄弟の弟、自害。頼朝の弟・範頼、修禅寺に流罪。その後、梶原景時によって自害に追い込まれる。

建久8年(1197)頼朝の長女・大姫、死亡。

建久9年(1198)頼朝の子。忠頼、急死。

建久10年(1199)頼朝、死亡。頼朝の次女・乙姫、死亡。

正治2年(1200)梶原景時・景季親子、殺害。

建仁3年(1203)頼朝の異母弟・阿野全成、殺害。全成の子・頼全、殺害。二代将軍。頼家の乳母父・比企能員、殺害。頼家の嫡男・一幡の乳母父・仁田忠常、殺害。一幡、殺害。

元久元年(1204)頼家、修禅寺で暗殺。

元久2年(1205)幕府重鎮の畠山重忠、重保親子、殺害。重忠を討った稲毛重成、殺害。

建暦3年(1213)幕府重鎮の和田義盛とその一族、滅亡。

建保2年(1214)頼家三男・栄実、自害。

建保3年(1215)北条時政、死亡。

建保7年(1219)三代将軍・実朝、鶴岡八幡宮にて暗殺。暗殺犯・公暁、殺害。

承久2年(1220)頼家四男・禅暁、殺害。

承久3年(1221)承久の乱。

嘉禄元年(1225)北条政子、死亡。

北条氏が実権を握るために有力豪族を滅ぼしていった歴史なんだよね。政子の血を分けたはずの頼家、一幡、公暁、栄実、禅暁、実朝も殺害されている。ってことは

実朝が詠んだ

「物いはぬ四方のけだものだにすらもあはれなるかな親の子を思ふ」源実朝 金槐和歌集

も、獣ですら親は子を思う慈悲の心があるのに、私の母は。。。ってことかもしれないね。

子規の句は、鶺鴒よ、笠を叩かないで怨霊となった範頼が起きちゃうからねって推測してるんだ。

 









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