Nicotto Town



5月自作『妖精』 七色の飴 1/3

 寺院に入ったとき、その子どもの前歯はなかった。

 新しい歯がなかなか生えてこなかったのは、まだその時期ではなかったのに無理に取られたからだ。育ての親だった叔父がわざと、ペンチでぎりりと引っこ抜いたのである。

 夜ごとやってきて金を落としていく客から頼まれたそうで、叔父は断れなかったらしい。とはいえ、申し訳なさそうなそぶりなどまったくなし。幼い甥が泣き叫ぶのを、情け容赦なく笑い飛ばしたものだ。

「いいご奉仕をしろよ、アンジェロ。チップをたくさんもらえるようにな」


 叔父は商人でそこそこ裕福。一見してふつうの良民の家を構えていた。だがそこは夜になると、ひどくいかがわしい処と化した。投機に失敗してたいそうな損失を出して以来、経費を浮かすべく、取引相手を自前のものでもてなすことにしてみたら、それがことのほかうまく回ったからである。それで家主は、娼館の主という裏の顔を持つに至ったのだった。

 しかしこの男はおのれの妻子をさしだすほどの、芯から腐っている大物ではなかった。単なる矮小などこにでもいる悪人で、それ用に雇った年ごろの使用人や引き取った甥にだけ、「仕事」を割り振った。家族以外の、おのれの支配下にある者たちに。 

 ただ働きさせられる幼い甥は、他に身寄りがないので仕方なく、叔父に従っていた。けれど次第に客をもてなすことを嫌がるようになり、ついにははっきり反抗の意思を示した。寝起きしていた物置に籠城したのだが。叔父が無理矢理引きずり出そうとしたとき、それが起こった。

「いやあ!! ゆるして! ゆるして!!」

 悲鳴を消そうと、叔父が思いきり子どもの頭を殴ったとたん――

 あたりのものが、吹き飛んだ。

 掃除用具や、使わなくなったたらいや桶。古い食器や服がつまった箱も、ぼろ布の束も。そして非道な悪人自身も、みんな木っ端みじん。どういうわけか、爆発したのである。


 子どもは泣きじゃくりながら叔父の家から飛び出して、近くの神殿に逃げ込んだ。

 もっと早くにこうすればよかったと、ひどく後悔しながら。

 神官たちはただちに、おののきながら「罪」を告白する子どもを保護して事情を調べた。

 子どもはなんと相当な魔力の持ち主らしく、感情を昂ぶらせすぎた結果、力が暴走してしまったらしい。すなわち普通に牢屋に入れて普通にしばり首にするのは、危険きわまりない状態であった。

 そこで神官たちは、そういうもの専用の隔離施設へと子どもを送致した。

 北の果ての岩窟の寺院。

 黒き衣の導師たちが籠もる、地の果ての岩壁の中へ捧げ子として送ったのである。

 

 

「あー、あー、アー……アー……」

 岩壁に囲まれた狭い部屋。壁には、金の獅子の小さなタペストリーが一枚。

 飾り気の無い円卓に頬杖をつく黒衣の師は皿にのった砂糖漬けのナツメヤシを楚々とつまんだ。

 向かいに座る蒼い衣をまとった子どもは、がちがちに固まり、今にも消し飛びそうなろうそくの火のよう。一所懸命、声を絞りだしている。

「アー、アールファ。ベータ……」

 つたない神聖語の発声を聞く師は、金の髪をさらと揺らし、かすかに首をもたげて苦笑すると。ぐいと蒼い衣の子どもを引っ張っぱって、膝の上に載せた

一緒に歌ってみようか。半音上げて。こうだよ。α

あー、あ、あ、あ、アー

α

αー……」

 美しい声とつたない声がひとつに重なる。たちまち降りてくる、魔法の気配。きんきんさやさや、あたりは不思議な音で満たされた。

 できたと、子どもがほっと肩を下げる

 韻律の音程は難しい。基本の二十六音の定音をひとつひとつちゃんと出すのすら、至難の技だ

 子どもは黒き衣の師と一緒に唱和してアルファからいくつかうまく歌えたけれど、スィータの音でつまづいた。

シー……スィー……スィー。すっ、スィー。スィー……

 何度やっても気の抜けた音しか出ない子どもを、くすくす笑って抱きしめ

 幼い弟子はむきになって何度も発音するが、歯の隙間から余計な空気が漏れてしまう。上の前歯が二本とも抜けているせいだ。

スィー……ふぁっ……!

 師は子どもの口に人さし指を突っ込んで、歯のない歯茎を優しく撫でた。     

育ち盛りだな。まあ、歯の生え変わりぐらいたいしたことはない

「は、生え変わりってわけじゃ……」

「そういう時期だよ。声変わりの時期の方がもっと苦労するぞ。ほらお食べ、ランジャディール」

 師は砂糖漬けのナツメヤシを小さな口に押し込んだ

 甘いランジャのナツメヤシ。ヘルゥ・ランジャ・ディール。

 師は子どものことをそう呼んでいる。もとの名前はわざと忘れたふりをして。

 子どもの事情はちゃんと知っているけれど、それも全然知らないふりをして。 


 知っているけれどそうと気づかせない配慮は、単なる思いやりからだけではない。

 ここはそういうところである。

 この寺院は、あの世と同じ次元にあるとされている。ゆえにここへ来たる者も、生者ではないとみなされる。湖を渡るとき、捧げ子は死者が天に送られるのとまったく同じ儀式を受けるのだ。死に装束を着て、名前の一部と過去を岸辺に置いていく。

 だからここでは「生前のこと」を口にしないのが、暗黙の了解。だれもが守る不文律なのだった。

これで七文字も歌えたのはすごいね。ご褒美をあげよう

 師は幼い弟子を下ろし、卓の下に手を伸ばして、布のかかった籠を出した。

見てごらん 

 膝に乗せられた籠。その布をとるなり、弟子は歓喜の悲鳴を漏らし

 中にいたのは、真っ白いふわふわのウサギだったからだ

「わあ! かわいい!

使い魔にしなさい。伝統的にはコウモリかカラスといったところだが、ウサギをしもべにする導師も多い。かのアスパシオンもそうだったと言われている

あ……夢見のソムニウスさまが、いつもお歌いになってる歌の人?

そう、死んだ弟子に焦がれて、後追いしてしまった導師だ。あの求愛歌はとても有名だね

きゅーあい……って?

 聞かれたとたん、金髪まぶしい師は、弟子の腰に腕を回して抱きしめた。

 きつくきつく。息が止まるぐらい。

いとしいに、君が欲しいと囁くことだよ

 子どもからこふりと、あえいだ息が出てきた。

十五の誕生日の夜に、おまえに歌ってやろう

「え? お師さまそれって……ふえっ!」

 振り向こうとする弟子の口に、師はまた指を入れた。

「犬歯がぐらぐらしているな。ここもじきに抜ける」

「うー?」

「歯が抜けたら枕の下に入れておきなさい。きっと妖精が来るだろう」 

「妖精? そんなのいないよ」

 ほんのり頬を染めていた子どもはさっと顔色を変え、口をとがらせた。暗い声が床に沈む。

「それ子どもだましのお話でしょ。お城を建てるために、妖精が歯を集めてるっていうの……それって、ただのおとぎ話なんだから。そんなのいない」

「精霊がいるんだから、妖精だっているさ」

 師はきっぱりそう言ったけれど、子どもはぷっくりふくれ顔。ぶんぶん、首を振って否定した。

「そりゃあお師さまは、すごい精霊ほんとに持ってるけど。妖精は見たことないもん。絶対いないよ」

 

 

アバター
2018/05/30 23:34
アスパシオン……
過去にさかのぼるお話でしょうか
またご拝読にうかがいます^^




Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.