5月自作『妖精』 七色の飴 1/3
- カテゴリ:自作小説
- 2018/05/25 23:49:47
寺院に入ったとき、その子どもの前歯はなかった。
新しい歯がなかなか生えてこなかったのは、まだその時期ではなかったのに無理に取られたからだ。育ての親だった叔父がわざと、ペンチでぎりりと引っこ抜いたのである。
夜ごとやってきて金を落としていく客から頼まれたそうで、叔父は断れなかったらしい。とはいえ、申し訳なさそうなそぶりなどまったくなし。幼い甥が泣き叫ぶのを、情け容赦なく笑い飛ばしたものだ。
「いいご奉仕をしろよ、アンジェロ。チップをたくさんもらえるようにな」
叔父は商人でそこそこ裕福。一見してふつうの良民の家を構えていた。だがそこは夜になると、ひどくいかがわしい処と化した。投機に失敗してたいそうな損失を出して以来、経費を浮かすべく、取引相手を自前のものでもてなすことにしてみたら、それがことのほかうまく回ったからである。それで家主は、娼館の主という裏の顔を持つに至ったのだった。
しかしこの男はおのれの妻子をさしだすほどの、芯から腐っている大物ではなかった。単なる矮小などこにでもいる悪人で、それ用に雇った年ごろの使用人や引き取った甥にだけ、「仕事」を割り振った。家族以外の、おのれの支配下にある者たちに。
ただ働きさせられる幼い甥は、他に身寄りがないので仕方なく、叔父に従っていた。けれど次第に客をもてなすことを嫌がるようになり、ついにははっきり反抗の意思を示した。寝起きしていた物置に籠城したのだが。叔父が無理矢理引きずり出そうとしたとき、それが起こった。
「いやあ!! ゆるして! ゆるして!!」
悲鳴を消そうと、叔父が思いきり子どもの頭を殴ったとたん――
あたりのものが、吹き飛んだ。
掃除用具や、使わなくなったたらいや桶。古い食器や服がつまった箱も、ぼろ布の束も。そして非道な悪人自身も、みんな木っ端みじん。どういうわけか、爆発したのである。
子どもは泣きじゃくりながら叔父の家から飛び出して、近くの神殿に逃げ込んだ。
もっと早くにこうすればよかったと、ひどく後悔しながら。
神官たちはただちに、おののきながら「罪」を告白する子どもを保護して事情を調べた。
子どもはなんと相当な魔力の持ち主らしく、感情を昂ぶらせすぎた結果、力が暴走してしまったらしい。すなわち普通に牢屋に入れて普通にしばり首にするのは、危険きわまりない状態であった。
そこで神官たちは、そういうもの専用の隔離施設へと子どもを送致した。
北の果ての岩窟の寺院。
黒き衣の導師たちが籠もる、地の果ての岩壁の中へ捧げ子として送ったのである。
「あー、あー、アー……アー……」
岩壁に囲まれた狭い部屋。壁には、金の獅子の小さなタペストリーが一枚。
飾り気の無い円卓に頬杖をつく黒衣の師は、皿にのった砂糖漬けのナツメヤシを楚々とつまんだ。
向かいに座る蒼い衣をまとった子どもは、がちがちに固まり、今にも消し飛びそうなろうそくの火のよう。一所懸命、声を絞りだしている。
「アー、アールファ。ベータ……」
つたない神聖語の発声を聞く師は、金の髪をさらと揺らし、かすかに首をもたげて苦笑すると。ぐいと蒼い衣の子どもを引っ張っぱって、膝の上に載せた。
「一緒に歌ってみようか。半音上げて。こうだよ。αー」
「あー、あ、あ、あ、アー」
「αー」
「αー……」
美しい声とつたない声がひとつに重なる。たちまち降りてくる、魔法の気配。きんきんさやさや、あたりは不思議な音で満たされた。
できたと、子どもがほっと肩を下げる。
韻律の音程は難しい。基本の二十六音の定音をひとつひとつちゃんと出すのすら、至難の技だ。
子どもは黒き衣の師と一緒に唱和して、アルファからいくつかうまく歌えたけれど、スィータの音でつまづいた。
「シー……スィー……スィー。すっ、スィー。スィー……」
何度やっても気の抜けた音しか出ない子どもを、師はくすくす笑って抱きしめた。
幼い弟子はむきになって何度も発音するが、歯の隙間から余計な空気が漏れてしまう。上の前歯が二本とも抜けているせいだ。
「スィー……ふぁっ……!」
師は子どもの口に人さし指を突っ込んで、歯のない歯茎を優しく撫でた。
「育ち盛りだな。まあ、歯の生え変わりぐらいたいしたことはない」
「は、生え変わりってわけじゃ……」
「そういう時期だよ。声変わりの時期の方がもっと苦労するぞ。ほらお食べ、ランジャディール」
師は砂糖漬けのナツメヤシを小さな口に押し込んだ。
甘いランジャのナツメヤシ。ヘルゥ・ランジャ・ディール。
師は子どものことをそう呼んでいる。もとの名前は、わざと忘れたふりをして。
子どもの事情はちゃんと知っているけれど、それも全然知らないふりをして。
知っているけれどそうと気づかせない配慮は、単なる思いやりからだけではない。
ここはそういうところである。
この寺院は、あの世と同じ次元にあるとされている。ゆえにここへ来たる者も、生者ではないとみなされる。湖を渡るとき、捧げ子は死者が天に送られるのとまったく同じ儀式を受けるのだ。死に装束を着て、名前の一部と過去を岸辺に置いていく。
だからここでは「生前のこと」を口にしないのが、暗黙の了解。だれもが守る不文律なのだった。
「これで七文字も歌えたのはすごいね。ご褒美をあげよう」
師は幼い弟子を下ろし、卓の下に手を伸ばして、布のかかった籠を出した。
「見てごらん」
膝に乗せられた籠。その布をとるなり、弟子は歓喜の悲鳴を漏らした。
中にいたのは、真っ白いふわふわのウサギだったからだ。
「わあ! かわいい!」
「使い魔にしなさい。伝統的にはコウモリかカラスといったところだが、ウサギをしもべにする導師も多い。かのアスパシオンもそうだったと言われている」
「あ……夢見のソムニウスさまが、いつもお歌いになってる歌の人?」
「そう、死んだ弟子に焦がれて、後追いしてしまった導師だ。あの求愛歌はとても有名だね」
「きゅーあい……って?」
聞かれたとたん、金髪まぶしい師は、弟子の腰に腕を回して抱きしめた。
きつく、きつく。息が止まるぐらい。
「いとしい人に、君が欲しいと囁くことだよ」
子どもからこふりと、あえいだ息が出てきた。
「十五の誕生日の夜に、おまえに歌ってやろう」
「え? お師さまそれって……ふえっ!」
振り向こうとする弟子の口に、師はまた指を入れた。
「犬歯がぐらぐらしているな。ここもじきに抜ける」
「うー?」
「歯が抜けたら枕の下に入れておきなさい。きっと妖精が来るだろう」
「妖精? そんなのいないよ」
ほんのり頬を染めていた子どもはさっと顔色を変え、口をとがらせた。暗い声が床に沈む。
「それ子どもだましのお話でしょ。お城を建てるために、妖精が歯を集めてるっていうの……それって、ただのおとぎ話なんだから。そんなのいない」
「精霊がいるんだから、妖精だっているさ」
師はきっぱりそう言ったけれど、子どもはぷっくりふくれ顔。ぶんぶん、首を振って否定した。
「そりゃあお師さまは、すごい精霊ほんとに持ってるけど。妖精は見たことないもん。絶対いないよ」
過去にさかのぼるお話でしょうか
またご拝読にうかがいます^^