自作7月 天の河 「門出」2/2
- カテゴリ:自作小説
- 2018/07/31 23:46:24
「ほうほう。岩窟の寺院出身の者をご存じかね?」
「はい。約一名だけですけれど。アスパシオン、という名の人を」
「……ぐへぶ!」
えっ?! だらだら兄弟子がいきなり噴いた? やだちょっと、背中にしぶきがかかったわよ?
「おお……! わしのハヤトを知っておるのかね、金髪のお嬢さん!」
ええっ?! 白髭の店主が目をキラキラさせて手を握ってきた?
ハヤト。それってたしか、ウサギが切れて怒りモードになると、あのおじさんに口走る名前だわ。
つまり本名。もしかしてこの人たち、ウサギの奥さん――の中にいるおじさんの知り合いなの?!
「ならば大盤振る舞いじゃ。全フレーバーの綿アメを作ってしんぜよう」
「あの。あなた方は一体……」
「ああ、わしか? わしはハヤトのお師匠さんじゃった者じゃ。そこのテーブルに突っ伏しておるのはハヤトの兄弟子。エリクじゃよ」
「師匠、俺アステリオンっす! ほらこれ着てますからっ。黒き衣っ」
なるほど、導師名がアステリオンなのね。
「おぉ、犬耳ふさふさの美人さんだなぁ。俺ここの副店長っす。よろしくな」
「副店長じゃと? 開店以来時々ここに遊びに来とるが、おぬし、一度もまともに手伝ってくれたことはないじゃろう」
「だって師匠、給料払う気全然ないじゃないっすかっ。タダ働きは嫌でーす。ま、かっわいいギルガメッシュニルニルヴァーナのご飯だけは俺が作ってやるけどな」
時々? ではこの方は、普段はここにはいないのね。
「ニルニルヴァーナって?」
「下界で飼ってたカメだよ。使い魔にしてたんだ。ああ、ハヤトが下界で元気なのはよーく知ってるから、近況報告なんていらないぜ? 年に二度、お中元とお歳暮送ってるからな」
「おちゅうげ……ああ、ついこの前、のし付きで塔に送りつけられてきた増殖黄金キノコ! あれあなたが送ったんですね?」
「おうよ。うまかったか?」
「あ……えっと、届くなりアスパシオンさんが焼き捨てて、ウサギとハニーがもったいないって文句を……あ」
「んあああ?! なーんーだーとぉおおおお! あんのクソハヤトが! 十二になってもおねしょしてたくせに!!」
どうしよう、口が滑ってしまったかも。アステリオンさんが、ぷがぷがおかんむりだわ。
「今度会ったらコロス! いや、今すぐあいつのとこに押しかけて問い詰めてくるわ! じゃあな!」
ああ、なんて勢い。あっというまに黒き衣を翻して出て行ってしまった。
でもここは天上……天河の一歩手前のはずなのに。あの人はどうやって、ここと下界と自由に行き来しているの?
「兄弟子さんは生きている人? それとも、死んでいる人? どちらなんですか?」
「まあまあ、そんなに目を白黒させんで、まずは落ち着きなされ」
白髭の店主は雲をひと練りふた練り。みるみる雲がほのかな紅色になっていく。
「雲のソーセージはどうかね? 見たところ、お菓子より肉が好きそうじゃとみたんじゃが」
その通りよ。見ての通り人間に似せてはいるけれど、私の本性は狼だから。
あら……結構おいしいわね。もう少し弾力があるとよいけれど。
「ほほ、もとはふわふわの雲じゃからのう。固くするのは、実はかなり難しいんじゃ。さてはて、それを口に入れても、まだそわそわしておるのう。お嬢さんは、下界に未練があるのかの?」
そうね……戻れるものなら戻りたいわ。
ハニーはウサギをせっついて、私を蘇らせようとするでしょうけど、そうするのは至難でしょうね。
まだ幼い娘のことは、とても心配だわ。だってまだ子どもなんだもの。
それに……
もし叶うならもう一度、ハニーを抱きしめたいわ……
「死んでなお、天河に昇らないでいる者はけっこうおる。わしも、そしてあのエリクもそうじゃ。エリクは家族思いでの、どうにも妻子から離れられん」
会いに行きたいわ。
会いに……
ああ、どうやったら、あの兄弟子さんのように行き来できるの?
「おぬしも神獣の類のようじゃから可能と思うがの。しかしそうするには、生きとし生けるものにとって、一番大事なものを捨てなければならん」
「一番、大事なもの……?」
「うむ。すなわち、輪廻をすることじゃよ」
私の手から雲のソーセージがゆっくり、カウンターに落ちた。
「つまりそれは……」
天河に昇らず。忘却の河に入らず。生まれ変わらない者になるということは。
「メニスが作る不死の魔人と、同じようなものになるということ?」
「さよう。おぬしは時の|軛《くびき》から放たれ、永遠にこのままでいることになる。変容を望んでも、決して変われない。何かを忘れて消し去りたいと思っても、決して消すことも、やり直すこともできない」
店主が私をみつめてきた。
柔らかなまなざしの中に、命の|理《ことわり》を破ることへの無情さと恐ろしさをひそめて。
「おぬしは、受け入れられるかの? このまま永遠に、今のままの自分でいることを」
その愛は本物か。
そう聞かれた気がして、私は一瞬だけ躊躇した。
星が瞬くほんのわずかの、目をつぶるひまもないほどの間だけ。
その瞬間に、私は考えた。
私は神獣。永遠に。それでよいの?
赤毛のあの人のためには、もっと別のものに生まれ変わった方がよいのではないの?
来世で人間同士とか、立派な狼同士とか、あの人との子どもを産めるような者にならなくてよいの?
……
……
……
ああそれは、本当にほんの一瞬だったけれど。
時が止まったのではないかと思うほど、永い永い瞬間だった。
「――いいわ。私はあの人のために、神獣にまでなったのだもの」
けれども私は答えていた。白髭の店主をまっすぐ見つめて。
だって聞きたくなかったの。
かわいい娘の泣き声を。なにより、あの人の哭き声を。
家族の哀しみを聞かなくてよいのなら。こぼれる涙を見なくてすむのなら。
どうなってもいい――
だから私は願ったの。心の中で、偉大なお母様に許しを乞いながら。
「大丈夫。受け入れられるわ。だからどうか教えて。そういう者になる方法を」
「そうか……では……ゆっくりとっくり、始めようかの」
じっと私を見つめ返していた店主は、私の前に雲のジョッキを置いた。
「まずは、永久への門出に乾杯を」
口に含んだその雲は、とても苦くてびりびりしていて。
あまりのまずさに怯んだ私の目に、涙が浮かんだ。
ほろりと、たったひと粒。
―― 門出 了――
それにしても雲のスイーツって
どんな一品でしょう
いろいろ想像しています
転生して子が産めないのはきつですが
養女がいるからそのあたりはなんとか