日光を見ずして結構と言うこと莫れ
- カテゴリ:勉強
- 2018/08/11 15:58:54
日光を見ずして結構と言うこと莫れ
辞書によると「にっこう」と「けっこう」をかけた言葉で、日光東照宮の美しさをみることなく結構と言ってはならない。ナポリを見てから死ね。と同意のことわざとされている。本当にそうだろうか。なにしろ、日光東照宮を作ったのはあの天海僧正なのだ。
「QED 東照宮の怨」高田崇史著 講談社ノベルス
天海恐るべしの言葉通りの呪術的仕掛けが日光東照宮に仕掛けられていた。
”家康=薬師如来を中心に据えてー、幾重にも魔除けを施してー、京都御所を見据えた、西のラインを敷きー、また、鎌倉ー江戸ー日光という、北極星を視野に入れたラインを敷きー、広大な結界が張り巡らされている。”
西のラインは"家康が自らを埋葬せよと命じた久能山、そして生母、於大の方が懐妊の祈願をした鳳来山、そして家康誕生の地である岡崎。これらは、地図上に一本の線で結ぶことができる。なおかつ、その線を延長していくとー、京都御所がある。"
これが霊脈とか龍脈といわれる呪のラインで、このラインを断ちきられると命脈がつきると思われていた。実際、豊臣家は秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰の豊国廟の真西に豊国神社があり、そのまた真西に西本願寺があるラインを作っていて、家康によってライン上に秀吉によって滅ぼされた真言宗智山派の智積院や、秀吉に法王の座を追われた教如に東本願寺を建てさせている。その後の豊臣家がどうなったかは歴史が示すとおり。これが呪いの力である。
さらに天海は日光を自分のために利用して結界を張っていた。それが日光ー結構のライン。
日光東照宮は日光菩薩、日光結構なら結構は月光菩薩。大日如来や薬師如来の脇士が日光菩薩と月光菩薩で、月光菩薩は山形県の月山。日光と月山を結んだライン上に薬師如来がいるべき場所がある。それは、天海僧正が得度した会津の龍興寺。慈覚大師の開基で、天海僧正が修行して得度を受けた寺。会津は家康にとっても大切なところで実子の保科正之が領主として入っている。
龍興寺は現在、福島県大沼郡会津美里町に現存して天海僧正が出家したところとして有名だけど。本堂は最近になって宮大工を呼んできて建て替えた普通のお寺さんなんだよね。ってことは付け加えておくよ。
コメントありがとうございます^^
江戸の鬼門封じは鬼門が上野の寛永寺で裏鬼門が芝の増上寺でしたね。
日光東照宮は三代家光が徳川の威信を示すために建てたもので、午だけは忠長の干支だから作らなかったとか。
秦氏が天照大神、物部氏が月読尊、蘇我氏が素戔嗚尊とも言われていて、藤原氏全盛の朝廷ではこの三氏は忌み嫌われていみたいです。。。
七夕の雨の歌は、天照大神と素戔嗚尊が会って生まれた八王子が二度と出現しないように、秦氏と蘇我氏が会わないようにとの呪いだそうです。
ミッシングリンクの話は有名ですね。猿と人間は直接つながらないとか。私は民俗学が専攻なのでこういう話は大好物ですよ^^
日光東照宮は陽明門、眠り猫、三猿が有名ですね^^
いろんなことを知らなければ、パンフレットに載っていることばかり見て終わりですからね^^;;
日光東照宮拝殿に飾られている三十六歌仙の歌は佐竹本とは違っていて環を作っていないから未完成との説も高田さんは書いておられました。
超古代にシュメール文明を築いたのは日本人では。。とも出ています
シュメール文明の地には 菊に似た壁画のような物が多くあります
サルから人間に代わる間の 骨がでていないとか・・・
宇宙人に人間は作られたとか・・
気が遠くなるような話ですがww
日本人はどこからの疑問が
まさか シュメール文明にまで辿り着く事になるとは思いもしなかったことでしたw
これを言うと・・周りに引かれますww
内緒でお願いしますww
家康が江戸の鬼門に関係してそこに建てたと思っています
興味のある方面が記憶に残ってるんだわねw
コメント ありがとうございます
血筋のお話面白いですよね^^
増してや 歴史上に残るお名前が血筋にあれば 尚更の事です
私の血筋は名もない農民の一人と思っています
何が何でもと調べられる事は 地区の神社が八幡神社
八幡 はたが 付く字は 秦一族に繋がるのだとか聞きます
ユウチューブからですがw
4年ほど前から 日本人はどこから来たという フレーズに引き込まれ
調べてました
秦一族 父方は大きな農家です 八幡神社にも近く そのすぐ近くを旧道があり
その先には京都方面に繋がっています
母屋にお嫁にいらしたおばさまは 京都に繋がる旧道の途中の県にあるお寺さんの娘さんでした
県外からのお嫁入 昔から親戚末い関係がある事が考えられます
旧道に繋がって京都があります
京都は 秦一族が作った都だとユウチューブでは言われています
遠い昔 父のご先祖様は 中国から渡ってきた秦一族で
一族が拠点にした京都から広がった一族なのではと思ってるんですよ^^
母方は最初は同じ秦一族と思っていたのですが
遺伝的要素として 弥生人 縄文人とか言われますよね
父は秦一族で 弥生系??
母方はちょっと違うよう? アイヌ系か?と最近になって思うのです
遺伝的な要素が濃く残っているのは母方に居ますから
有っても不思議無い 日本人のDNA 半分弱が縄文人に繋がるDの一族だとか
いろいろ間違って書いているかもしれません
日本には多くの人たちが 南の 北の海を越えてやってきています
単一民族でなく混血国家だったとw
義父は平家一門の末いに関係してますし・・平家はペルシャ系かとか?言われています
義母は神社が 大和系。。。???
単に科学的な要素も何もなく書いてますが・・
神社とか・・体の特徴とか思うとそうなのかな・・・とかとかだけですw
だって その昔神代の昔・・
伊勢神宮は 丹後にありましたからね
日本海側 距離でもそう遠くないです
義母一族は 伊勢の末いと考えられるのです
こうなったら私の子供は しっかり混血してるって事になりますね^^
キティーちゃんのタオルハンカチをお土産に買ったくらいの思い出しかないのですが、
歴史を知れば、まったく違って見えるのでしょうね。
日光ー結構のライン・・知っていたら色々思いを巡らせたと思います。