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聖徳太子の徳ってどんな意味?

聖徳太子といえば日本人ならほとんどの人が知っている歴史上の人物で、今でも日本の和の精神は聖徳太子が「和を以て尊しとなす」と十七条憲法の第一条に置いたからだと言われている。

だからなのか、歴史の講義でも偉大な政治家だったから聖徳なのだと教わる。

とはいえ、日本史ですばらしい名前を贈られた人が悲惨な目に遭っていることは珍しくない。たとえば、天照大神とか素戔嗚尊とかのように。

「逆説の日本史2古代怨霊編」井沢元彦著によると

聖徳太子以降に諡として徳の字を贈られた天皇は6人。

”36代孝徳天皇…皇太子(中大兄皇子)に妻を奪われ旧都に置き去りにされる。ー家臣に放置されて旧都で孤独死。
48代称徳天皇…弓削道鏡を天皇にしようとするが急死して果たせず。ー病死だが、暗殺説あり。
55代文徳天皇…最愛の第一王子(惟喬親王)を皇太子にできず死亡。無理矢理譲位。ー発病後わずか4日で急死。
75代崇徳天皇…政権奪回のため乱(保元の乱)を起こすが敗北し讃岐へ流罪となる。ー「天皇家を没落させる」と呪いをかけて憤死。
81代安徳天皇…平家の血を引く幼帝。わずか8歳で源氏に追われ一族もろとも滅亡。ー二位の尼に抱かれ海中へ投身自殺。
84代順徳天皇…武家政権を打倒するために父とともに挙兵するが敗れ佐渡へ流罪となる。ー流罪地で、都への帰還を切望しながら憤死。”

これだけ悲惨な天皇ばかりだと徳は悲惨な天皇にしか贈られていないのではないかと思われる。すばらしい業績を残した天皇は6人の中にはいないからだ。

そしてもうひとり徳の字を贈られた天皇が存在する。

82代後鳥羽天皇…武家政権を打倒するために挙兵して敗れ隠岐へ流される。ー恨みの置き文をして配所の隠岐で憤死。

後鳥羽上皇は出家して法皇となったが隠岐に流されて帰京はかなわず配所で憤死した。死後の諡は顕徳院。徳がついた天皇となるはずだった。しかし、祟りが起こって後鳥羽院と改められた。

”延応元年五月顕徳院の諡が贈られたが、上皇の怨霊が噂され、仁治三年には後鳥羽院と改められた。”(『国史大辞典』吉川弘文館刊)

”もちろん「怨霊」など一切信じないという人もいるだろう。しかし、肝心なのは上皇の死後、異変(彗星の出現という説もある)が起こり、その異変は上皇の怨霊の仕業だと信じられた、という事実である。”

この怨霊を封じるために諡が変更された。徳はすばらしい字だが、当時の人たちは悪い名前だと知っていた。だから、諡を変更したのだろう。

ってことは聖徳太子もいい名前ではないってことなんだよね。

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2018/12/04 08:56
>Lilyさん
これ以上悲劇を出さないっていうのではなくて、悲惨な亡くなり方をした天皇が自分たちに祟らないように徳の字を贈ったと思われます。怨霊は天皇ゆかりの人たちの恨みなので、こんなに手厚く諡をしたよっていうパフォーマンスですね。
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2018/12/02 20:52
なるほど~。これ以上悲劇を出さないために、諡を徳に変更したのですね。
こういうことに注目して、歴史をひも解くのも面白いですね。




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