「もう会えない」Ⅰ
- カテゴリ:自作小説
- 2019/01/10 13:30:50
年末に向けて、残業が続く毎日。
その日もサービス残業を終えて、私はオフィスビルを出た。
寒くなって恋人同士がいちゃつく姿を見ても、独り身を淋しいともう思わなくなった。それは、34歳という年のせいなのか、仕事が忙しすぎるせいなのか。
「おねえさん」
おばさんと呼ばれるのは抵抗があるけれど、もうおねえさんという年でもない。声を掛けられたのが自分ではないとわかっていても反応してしまうのが、少し哀しい。
「おねえさんってば」
後ろから声をかけてきた彼は、ぴょこんと私の前に来ると顔を覗き込んだ。どうせがっかりして行ってしまうだろうと思いきや、彼は私に向かってにっこりと微笑んだのだった。
私が絶句したのは、彼が本当に私に声を掛けてきたことではなく、彼の余りにも整った綺麗な顔に魅入ってしまったからだ。
「さっきから呼んでたのにな」
少し垂れ気味の大きな眼が印象的な、男の子というよりは美少女といった方が良いかもしれない顔立ち。高いヒールを履いている私とほとんど変わらない身長。だから、目の前に彼の顔がある。
ん? と笑顔で返事を待つ彼に見惚れていたのはほんの少しの間だけで、すぐに我に返った。
「何か、用事?」
言ってしまってから、高校生くらいの彼に対して少し冷たすぎる言い方だったかな、と反省する。けれども、そんなことを気にする様子もなく、おねえさんに用事、と答えが返ってきた。
「何の用事か知らないけれど、早く家に帰りなさい。もう遅いから」
それでも彼は小首を傾げて、そんなに遅くないけどなあ、と呟いた。
完全にからかわれている、と思った。仲間とのいたずら心で声を掛けているのだろう、と考えるのが妥当だ。
「じゃあ、おねえさんが送っていって」
1人で帰れるでしょう、と答えて、私は彼を追い越して歩き始めた。
すると、彼はそうするのが当たり前とでもいうように、私と並んで歩き始めたのだ。
あのねえ、と反論したけれど、彼の天使の微笑みにその気は失せた。
美少女のような男の子に微笑まれて、嫌だと言える女性がいるだろうか。
その上、変声期がまだなのか、透き通るようなハイトーンボイスが耳に心地良い。何かスポーツ系の部活に入っているのだろうか、適度に筋肉がついた細身の身体は歩くというよりも、軽やかに飛んでいる、という感じだ。
どんな意図があるのかもわからない知らない男の子と歩いているというのに、彼の人懐こい態度が嫌味ではなく、少しずつ警戒心を解いている自分に気付く。
「ね、名前、教えて? 下の名前」
急に私の目の前に来るから、立ち止まらざるを得ない。
「あ、ボクは、翔。翔太って名前を付けるのが流行ってて、でも、同じじゃつまらないから太を取ったんだって。なんだかねー」
その表情は、ちっとも不満に思っていない様子だった。幸せな家庭で育ったんだろう。にこにこと笑う笑顔は邪気がなくて、子どものように澄んだ瞳が私をみつめている。
だから、その天使の笑顔は止めて。あらがえないじゃない。
私は観念して、美雪、と答えた。
「みゆき、かあ。いい名前だね。じゃあ、冬生まれなんだ」
名付けのことなら、私も似たり寄ったりだ。雪がほとんど降らない土地に生まれた私が、その年は珍しく雪が積もったのだそうだ。安直なその名前を、私はそれほど気に入ってはいない。
「…みゆきおねえさん、うーん、ちょっと違うな。うん、みゆきちゃん」
私は思わず彼の顔をじっとみつめてしまった。ちゃん? 年齢差倍近い私に『ちゃん』付け?
彼は、うんうんと頷くと歩き出した。今度は私が追いかける形になる。
「待って、きみ」
その言葉に振り返り、『しょう』でしょ、といたずらっ子のように彼が笑った。
負けた、と思った。ずるい、とも思った。
そんな顔で微笑まれたら、愛おしいと思ってしまって何がいけないというのだろう。気付くと既に、彼に心惹かれている自分がいた。でもだからこそ、こう言わなければならなかった。
「…翔、家に帰りなさい。親御さんが心配してるわよ」
これ以上一緒にいたら、私は彼にもっと恋をしてしまうだろう。それを防ぐ為に一刻も早く、別れてしまえばいいのだ。
「しょうがないかあ。あ、今のシャレじゃないからね。まあ、みゆきちゃんがそう言うなら、帰ろっかな。嫌われたくないし」
最後の言葉は聞かなかったことにして、駅前のバス停まで並んで歩いた。
翔は、とても嬉しそうにとりとめもない話を続けていた。私は、心地よい声に酔いそうになりながら、なんとか自分を保とうと努めた。それでも、冷えて凍えた身体の芯が、ほんのりあったかくなるような、そんな心持ちになっていた。
翔は、大人しくバスに乗って帰っていった。
バスの中から、思い切り手を振りながら。
あの天使の笑顔を私に向けて。
続く























