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「もう会えない」Ⅲ-1



       Ⅲ

 年末年始を、私は何をするでもなく、ただぼうっと過ごした。 
 何もする気になれなかった。 
 余りに淋しくて、テレビをつけてみたものの、音は右から左へとただ流れていくだけだった。 
 思い出すのは、翔の温もり。 
 抱きしめられた時の、しなやかな筋肉。 
 当たり前だけれど、美少女のような顔をしていても、若い男性の体だった。 
 そして、優しい優しいキス。 
 気付くと、涙があふれていた。


 そんな10日間を過ごして、仕事始めの朝になった。 
 化粧をしようと鏡を見て、私は唖然とした。 
 一気に老け込んだような荒れた肌。赤く腫れた目元。こんな顔では仕事に行けないと大急ぎでシャワーを浴びると、一番良いスーツに身を固めて念入りに化粧をした。 
 何か言われるかと思ったものの、皆、正月をのんびり過ごしているのは同じなので、私だけが目立つようなことはなかった。 
 私は、怖かった。 
 翔は、今日、来てくれるのだろうか。 
 別れ際、翔は何も言わなかった。『さよなら』すらも。 
 この年になると、なんでも悪い方に考えてしまう。そうしておいて、やっぱりそうだったと諦める。あらかじめ予防線を張っておくのだ。自分が傷つかないために。 
 翔はいない。きっと。 
 そう思わないと、会社から出られなかった。 
 オフィスビルのロビーは広すぎて暖房が効いていないのか、ひんやりとしている。自動ドアが開くと、一気に冷たい風がたたきつけるように吹いてきた。飲み会を断らなければ良かった、と少しだけ後悔する。 
 吹きすさぶ風の中、駅へと向かう。 
 いつも翔が待っていてくれた場所。そこに、彼の姿はなかった。 
 やっぱりね。そう呟く。予防線を張っておいて良かった。 
 もう彼のことを考えるはよそう、あふれそうになる涙をこらえようとした時だった。 
 横からふいに腕をつかまれる。反射的に振り払おうとすると、みゆきちゃん、と呼ぶ声がした。思わず振り向くと、そこには焦った顔をした翔がいた。 
「…翔?」 
 叫び声をあげなくて良かったと現実的なことを考えながらも、気が抜けてその場にへたりこんでしまったのだった。 
「仕事初めの日って、こんなに早く終わるんだね」 
 走ってきたのか、ハアハアと息を切らせながら翔が言った。 
 目の前に翔がいることがまだ信じられなくて、頭がうまく回らない。 
「…みんな、正月ボケしてるから」 
 とんちんかんな答えを返した私に、翔が笑う。 
 ああ、これだ。天使の笑顔。凍えるような風が吹いていても、心がほんのりと温まってゆく。 
「良かった。間に合って」 
 翔の手につかまって立ち上がる。 
 翔の掌の温もり。考えてみれば、手をつないだのは仕事納めのあの一度きりだった。それなのに、こんなにもはっきりと覚えているなんて。 
 翔は、息を整える間も惜しいように言葉を継いだ。体全体からは湯気が立っている。 
「みゆきちゃんの家、知らないし、ビルを出たところでないと、逢えないから」
 ビルを出たところ、という言葉に違和感を覚える。お互い、なんとなく避けていた話題。再び逢えたことで気が緩んでしまったのだろうか。私は遂に、口に出してしまった。 
「…ねえ、どうして私があのビルから出てくることを知っているの?」  
 言い淀んでいる翔を見て、後悔と落胆している自分がいた。 
「…見たんだ。あのビルから出てくるところを」 
 ちゃんと話すよ、そう翔は言った。初めて2人で、カフェに入った。 


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