出雲って本当はどこなの?
- カテゴリ:勉強
- 2019/05/10 16:18:51
野見宿禰と当麻蹶速は相撲の祖とされる。日本書紀によると垂仁天皇7年7月7日大和国当麻邑に住む当麻蹶速は強力無比で生死をかけた戦いを望んでいたため、出雲の野見宿禰を呼び寄せて垂仁天皇の御前で戦わせたところ、野見宿禰が当麻蹶速の腰を蹴り折って殺してしまったことが相撲の始まりで、戦ったといわれる奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の摂社の相撲神社に野見宿禰と当麻蹶速はともに祀られている。
戦った場所は現在の奈良県桜井市、当麻蹶速が住んでいたのは奈良県葛城市とほぼ特定できている。では、野見宿禰が住んでいた出雲はいったいどこなのか?
出雲といえば出雲大社がある島根県出雲となるのだけれど。
垂仁天皇7年は西暦で言えば紀元前23年。朝廷が桜井市にあって出雲まで制圧していたかというとはなはだ疑問だ。今のように道が整備されているわけでもなく、道中では地方の有力者が勢力を誇っていて、海路も日本海を漕いでいけたかどうか。
日本書紀によると。
”七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、詔群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。”
と書かれていて、当麻蹶速という強い人物がいるから誰か戦わせるべき強い者はいないかと垂仁天皇が尋ねたところ出雲国に野見宿禰という人物がいますと答えたところ、その日のうちに長尾市を使わして野見宿禰を連れてきて勝負をさせたところ野見宿禰が勝利したという大意だ。
「QED出雲神伝説」高田崇史著によると。
”「その日のうちに宿禰を出雲から呼び寄せたという部分です。実際に『書紀』にはこうありますね。『即日に、倭直の祖長尾市を遣わして、野見宿禰を喚』ーと。しかしこれは、さすがに遠すぎる」
「ああ、そこですか」由利も頬を緩める。「でも、それは物語の一つとして面白く書いたんでしょう」
「物語じゃありません。史書です」
「一日千里を走る馬ではありませんが、少し脚色したんじゃないですか。野見宿禰を神懸かり的な人物に仕立て上げるために」
「確かにそうかも知れません。この記述を信用すると、長尾市は旅客機を使ったほどのスピードで大和国から出雲国に赴き、野見宿禰に帝のお召しを伝えた。仰せを承った宿禰は長尾市に従って、これまたジェット機並の韋駄天走りで大和に到着する。そこで息つくいとまもなく当麻蹶速と対決して、彼を蹴り殺してしまったという」”
高田崇史は出雲は島根の出雲ではなく大和の出雲ではないかと推測している。垂仁天皇が創作で4世紀前後の日本が舞台だったとしても島根出雲は遠すぎるからだ。出雲の地名は全国いろいろなところにあるし、有名なところじゃなくてもいいってことだからね。
邪馬台国は北九州か北陸かが当時の航海技術からいくと有力候補なのですが、北陸は能登半島の西側には地形的に上陸できるところがなく、潮の流れから東側へは行けないという難点がありますね。
出雲については斉明天皇の頃の出雲寺の記述だったはずなので、日記にあげておきますね。
まあ、いろんな考え方ができるから、古代史はおもしろいのですが、
出雲「村」みたいなものはあったにせよ、奴隷だったとは思いたくないなぁ~^^
因みにワタクシ個人的には邪馬台国は畿内、魏志倭人伝のルートは日本海ルート、
投馬国は出雲国と考えています。^^b
こんにちは^^
魏志倭人伝は3世紀末で、日本ではない外国の記録なので動かしようがないものですね。
3世紀末は、馬もいないし、船も手こぎの平船しかなくて、帆船はなかったというのがいろんな記述から明らかで、雄略天皇の瀬戸内海啓開(吉備氏の乱の頃)の5世紀まで瀬戸内海は技術的に通れない海でした。しかも大阪湾は船を着けることができないレベルの急流で港を作れなかったから、邪馬台国は畿内ではありえなくて北九州。なのですが。
だから、神武東征も神話も野見宿禰の話も時期をずらして書かれたと言えますね。
出雲は征服されて畿内に連れてこられて奴隷扱いされていたとの記述があった記憶があるから、出雲国は畿内の出雲から来た人たちを閉じ込めた村だったかも知れません。
思い出したら書き出しておきますね。
こんど書店へ行ったら探してみます^^
「出雲國有勇士」。出雲「国」と書いているからには島根県の出雲だと思うのですがね~。
これが「有出雲國勇士」なら「出雲国出身の勇士が(いまこちらに)いる」とも読めますけれども。
垂仁天皇の宮がある桜井市にも出雲という地名があるようですが、高田氏がどこの出雲と比定しているのか
興味のあるところです。
島根の出雲なら勅命を受けてその日に行くのは当然無理……というか、使者が出雲へ行くのにも何日かかったことか。
ですからこれはやはり「物語」であって史実ではないのではないでしょうか。
また「一日千里を走る馬」で思い出しましたが、「魏志倭人伝」によれば卑弥呼の時代にウマはいないと書かれていますので、さらに垂仁天皇の時代(紀元前)までさかのぼっても当然ウマはいないはず。いちばん速い交通手段は船と徒歩。となるとやっぱりこれは「物語」だと思います。
さらにもうちょっとウマの話を続けますね。
記紀の神話にはウマが出てきますよね。スサノヲが高天原へ行って乱暴狼藉を働くシーン。ウマの皮を逆剥ぎにして機屋の屋根から投げ落とします。
つまり、記紀の神話は倭にウマが存在する時代のことになります(あるいはウマを知っている人物の創作ということになります)。それは「ウマはいない」と書く「魏志倭人伝」卑弥呼の時代よりも後のことになります。
記紀では神話に続いて天皇の世が書かれるわけですが、神話の時代に既にウマがいたのならば、続く天皇の御世にも、垂仁天皇の御世にもウマはいることになり、そうなると野見宿禰はウマを飛ばして出雲「国」から馳せ参じたということもあり得るのかもしれません。
それにしたって即日は無理でしょうけどね~^^;