関ヶ原は二度天下分け目となったということ
- カテゴリ:勉強
- 2019/05/28 16:29:50
慶長5年9月15日朝、東軍先鋒の福島正則隊が宇喜多秀家隊、小西行長隊に襲いかかって始まった関ヶ原の戦いは、小早川秀秋、脇阪安治の裏切りもあって昼頃には西軍が敗走。島津隊の島津の退き口で合戦が終わり、東軍の勝利となった。
教科書ではこの戦いによって、徳川家康の天下取りが決まったように書かれていて、テレビで歴史が取り上げられるときも天下分け目と言われることが多いが、実はそんなことはない。
西軍が敗走したとき、石田三成、宇喜多秀家、小西行長らは戦場から脱出。島津義弘は敵に向かって退却という前代未聞の撤退戦で徳川本陣を脅かして離脱。西軍総大将の毛利輝元は無傷で大坂城にあり、豊臣秀頼も健在だった。
そこで、家康は勝利に浮かれず、その日のうちに小早川秀秋を先鋒にして三成の居城の佐和山城を攻めて17日に落城させ、石田一族を自刃に追い込んだ。これで三成は佐和山へ戻ることを諦め、腹を壊したこともあって田中吉政に捕縛される。
宇喜多秀家は逃亡に逃亡を重ねて薩摩に匿ってもらうが、徳川家康と島津義弘との和議がなって、引き渡され死罪は免ぜられて八丈島へ流罪となるがそれはあとの話。
残るは毛利輝元で、大坂城で健在で関ヶ原で参戦しなかった毛利本隊も健在。秀吉の息子の秀頼もいる。大坂城は補給さえ万全なら織田信長も落とせなかった難攻不落の城なので、徳川家康も落とせなかったはずなのだが(のちの大阪冬の陣でも家康は大軍を率いて力攻めしたが落とせなかった。夏の陣では堀を埋められて裸城同然だったために落とされる)、輝元は家康の空手形の本領安堵をすっかり信じて大坂城を明け渡してしまう。
毛利のバカ殿の輝元は、加藤清正や福島正則らの豊臣恩顧の武将達が秀頼に向かって弓を引けないであろうこともわからず、家康相手に有利な講和条件を引きだすために戦うこともできず、家康直筆ではない本領安堵に欺されて、あぶなく領地を召し上げられて吉川広家が本家を継ぐところだった。家康は本気で毛利を取りつぶすつもりだったからだ。島津の勇猛さが家康相手に有利に働いたのとは逆だ。
そして時は巡り、267年後の慶応3年10月14日の大政奉還で徳川政権が終わる。薩摩と長州が手を結んで幕府を追い込んで、関ヶ原のリベンジを果たしたのだ。
司馬遼太郎は「封建社会では恨みは世襲する」というように言っているが、その通りに親から子へ語り継がれた徳川への恨みが明治維新へとつながっていく。
「逆説の日本史12近代暁光編」井沢元彦著によると。
長州藩出身の明治の元勲は例外なく吉田松陰の松下村塾で学んでいる。頼山陽の「日本外史」を使ったが始めるところは関ヶ原であった。関ヶ原で君ならどうしたか?
関ヶ原での毛利の失敗は、徳川を信用しすぎたことと上層部が優柔不断で何事も決められなかったことにある。倒幕時に長州は徳川に妥協する上層部をクーデターで倒して徹底的に徳川を追いつめる。
薩摩は関ヶ原の失敗を、情報収集の失敗だったと判断した。だから、伏見城に入れずわずか1600で西軍に布陣しなくてはならなかった。だから、状況判断をするために情報収集能力を上げたはずだ。倒幕の時、西郷隆盛の功績を評価するが、彼らはどう立ち回れば陽の当たる場所で戦えるかを考えたはずだ。だから、会津と結び、のちに長州と結び、明治政府の中心となった。
一方の東軍の論功者の末裔で明治の元勲となったものはいないことも覚えておかないとね。
こんにちは。
毛利は三津刈屋口の戦いでは河野再興の戦いを支援しているから(とはいえ、三津浜夜襲の経緯は情けなさ過ぎるくらい)、毛利本家の輝元のバカ殿振り、吉川広家、小早川秀秋(負けず劣らずのバカ殿振り)の内通を知ったときはがっかりしましたよ。
小学生のときの先生が歴史大好きで、関ヶ原は戦下手の石田三成が総大将だったから負けたと説明されたのですが、西軍はほとんど機能していなくてひどかったですね。
維新のとき、伊予松山藩主は白河藩主松平定信の子孫の久松松平家だったのですが、奥方は明治になってから、伊予松山藩からは脱藩してまで時代を動かす人物は出なかった情けないと嘆いたそうです。
今は福島県内で神社を巡って古文書を読んだりして民俗学の研究ですが、会津に行くとやっぱり薩長はゆるせんっていうお年寄りがいます。他の地域だと全然なのですけどね。
関ケ原の戦いは、好きな分野です^^
思えば不思議な戦いですよね。
総大将の毛利輝元は弱腰で、分家の吉川と小早川は敵に内通している…
こんなグダグダな状況では、大坂城に籠城しても、果たしてどうなっていたやらです;;
もっと西軍が一つにまとまっていれば、大坂城に籠城して十分に勝機はあったと思うんですけどね。
kiriさんのおっしゃる通り、20万の大軍勢で攻めた大坂冬の陣の頃でさえ、家康は落とせなかったんですから。
大津城を攻略していた立花宗茂が、大坂城に入城して徹底抗戦を主張しましたが、優柔不断な輝元に呆れ返って九州へ帰還してしまう始末です。
本当に、明治維新は関ケ原のリベンジですね。
関ケ原では西軍、幕末では佐幕派なので、そう考えると、どちらを応援して良いか迷ってしまいますけど(敗者が好きなんです~^-^;)
東軍の論功者の末裔に明治の元勲なしですか。確かに。
明治政府内では佐幕派が出世するのも一苦労でしたものね。
陸軍大将にまで上りつめた立見尚文が思い浮かびます。
長い歴史で見ると、最終的に勝利したのはどちらなのか、考えさせられますね。
面白い記事を読ませて頂き、ありがとうございました(*^^*)