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長篠の戦いで武田は神に殺されたというお話

天正3年4月、武田勝頼は三河へ侵攻。5月には長篠城を包囲して落城寸前まで追い込むが、織田信長・徳川家康連合軍3万8000が救援に駆けつけ、鳶ヶ巣山砦への酒井忠次隊の奇襲、設楽原の決戦で織田・徳川軍は武田を壊滅寸前まで打ち破り、勝頼はわずかな手勢で落ち延びることとなった。

長篠の戦いは旧暦5月で梅雨の時期。織田信長は雨を嫌ってか長篠へはゆっくり行軍している。天気を読むのは軍を動かす上では当然だったはずで決戦時に雨が降らず、鉄砲隊に突っ込んで壊滅した武田騎馬隊は自殺行為としかいえない。

一方の武田は、織田・徳川連合軍が救援に来たとの報を受けて軍議を開いて、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは撤退を進言したが、勝頼は決戦を主張して譲らなかったという。

武田は織田のように、トップが全部決めてその通りに実行するシステムではなかった。信玄の頃から武田は御一門衆、譜代家老衆、その他の諏訪衆、上野衆、真田衆、海賊衆などから構成されていて、信玄直属の草たちも存在していた。信玄は親族に廃嫡されそうになったこともあり、親族だけが力を持つことができないようにしたとも言われている。

にもかかわらず、勝頼は武田恩顧の家臣達の言を退け、決戦に向かって惨敗を喫した。勝頼はバカではないはずで、不利なこともわかっていた。だったら、なぜ突っ込んだか。

それは勝頼が諏訪家をいったん継いだからに他ならない。諏訪家と言えば諏訪大社大祝だ。諏訪頼重は武田信虎・村上義清と結んで海野一族を上野に追いやるなど、軍神諏訪大明神として武名を挙げる働きをしたことで有名だが、諏訪大祝家だからこそ、負けるわけにはいかなかった。なぜなら諏訪大明神は軍神だから、当主はどんな状態でも戦をして勝つことで自分には神が降りていると証明しなければならなかったから。

勝頼は引いて立て直すか、軍神がついていると証明するかで迷ったはずだ。だが、勝頼の祖父の諏訪頼重は武田に降参したことで神が降りていないとされて諏訪衆から見放された。ここで引けば諏訪衆は未来永劫味方しない。ということを恐れたのではないか。

ってことを考えてみた。

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2019/05/30 15:55
>ゆりかさん
こんにちは^^
武田は長篠の敗戦のあと、上杉や後北条とうまく関係を持って立て直していくのですが、あと一歩の詰めが甘くて、高天神城で決定的に見限られたって印象です。御館の乱の中途半端な後詰めも後北条から同盟を破棄される結果となってますし。

諏訪大明神に関しては、当時の考え方じゃないと出てこないと思います。神の軍だから負けないなんて現代の研究者は考えないですからね。諏訪頼重は一度の負けでなぜ自刃となったか、考えてみると、元の大祝に戻しても諏訪家は掌握できなかったのではないかと思っています。それほど軍神じゃなくなったときは怖い。

新府から落ちるときに小山田ではなくて真田を選んでいたって思っていますが、そうならないのも当時の考え方なのでしょうね。
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2019/05/29 21:42
こんばんは、kiriさん。

なるほど~!
以前、武田関係の日記にコメントして頂いた時、長篠の戦いで雨が降るのを待てなかったことについて
『指揮系統が諏訪衆では無理』
と、おっしゃられていたのは、こういう意味だったのでしょうか?

勝頼が不利な状況にも関わらず、突っ込んでいった理由を、諏訪家に起因する説は斬新で面白いですね^^

暗愚の凡将と散々言われ続けていた勝頼ですが、信長から「四郎(勝頼)は、若輩ながら信玄の掟を守り、表裏を心得た、油断ならぬ敵である」と評されたくらいですから、決して凡庸ではなかったはず。
長篠の惨敗後も、素早く体制を立て直すことに成功してますものね。

kiriさんが書かれている通り、武田家はトップが全部決めてその通りに実行するシステムではなかったと思いますが…
長篠の戦いで、古参家臣がことごとく討死した結果、勝頼中心の政権発足に成功した面もあったのではないかと。
いやでも、まさか勝頼は狙ってやったわけではないと信じたいですけどね~^-^;
そうだとしたらあまりにブラック勝頼過ぎるので(苦笑)
kiriさんの諏訪衆説の推したいと思います。

興味深い説を聞かせて頂き、ありがとうございました(*^^*)




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