本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その1
- カテゴリ:勉強
- 2019/06/12 16:26:38
元禄14年3月14日、松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及び、取り押さえられて即日切腹。元禄15年12月14日赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち取る襲撃事件をあわせて赤穂事件って呼びます。
「逆説の日本史14近世爛熟編」井沢元彦著によると。
赤穂事件は「日本人好みに歴史を改定した」お話になっているという。それは、日本人である以上、実際に史料に当たる前になんらかの形でフィクションの忠臣蔵に触れているからだという。
「仮名手本忠臣蔵」は人形浄瑠璃および歌舞伎の演目の一つで、二代目竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作。当時は幕府によって実名の武士階級の事件を扱った演目は許されず、太平記の時代を借りて吉良上野介は高師直、浅野内匠頭は塩谷判官高貞、大石内蔵助は大星由良之助となっている。しかし、幕府も含めこの忠臣蔵が赤穂事件を扱ったことは知っていた。
仮名手本は「いろは」で47文字、大星由良之助の妻は「お石」で二人あわせて「大石」、忠臣蔵は忠臣が一杯詰まったと忠臣が蔵とを掛け合わせている。蔵は内蔵助のことだ。フィクションで民衆の気持ちを引きつけるためには討ち入る側に理がなくてはならない。だから、吉良が悪者となって、将軍にひいきされて生き残ったほうとされた。浅野内匠頭ががまんできなくて刃傷沙汰に及ぶくらいいじめ抜いたのだから仇討ちされて当然というストーリーになったのだ。
現実はどうだったのか。井沢氏は第一級史料である「梶川氏筆記」に注目している。浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったときに浅野内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛頼照が書いた日誌だ。
日誌によると、御白書院の近くの廊下(松の廊下とは書いていない)の近くで梶川が吉良上野介と打ち合わせで立ち話をしていたところ、吉良の後ろから何事か叫びながら斬りかかってきた男がいた。それが浅野で、吉良が驚いてふり返ったところをさらに切りつけ、吉良が逃げようとしたところを2回ほど切りつけた。吉良が倒れたところで、梶川は浅野を取り押さえた。と書かれている。
忠臣蔵のように浅野内匠頭が吉良上野介を呼びつけふり返ったところに切りつけたわけではなく、後ろから叫びながら脇差しで切りつけ、ふり返ったところをさらに切りつけ、そして逃げようとしたところを2回も切りつけている。当時の常識からいっても卑怯きわまりない襲い方で、その上、討ちもらしている。
殿中は鯉口三寸だけでも「その身は切腹、御家は断絶」でこのルールは絶対だった。抜いて切りつけたのだから浅野内匠頭もわかっていたはずだ。
帝国陸軍大将の乃木希典も浅野内匠頭が吉良上野介を殺せなかったことは批判している。なぜなら、浅野は大名で武士団のトップだったからだ。その浅野が後ろから老人の吉良を襲って4回も切りつけながら殺すことができなかった。当時の常識からして「バカ殿」でしかなかった。
しかし、バカ殿では困る人たちがいて改定が行われたのだ。
つづく。
こんにちは。コメントありがとうございますm(__)m
こんにちは。
殿中で刃傷を起こしたら、御家取りつぶしは当たり前で例外はなしですからね。そんなことを百も承知で斬りつけたんだとしたら、大名として家を継いだことが間違いだったレベルの人ですよね。作家の海音寺潮五郎氏も「五万石の小大名といえども家中の侍と家族をあわせたら、二千人や三千人が路頭に迷う」から滅多なことができないはずって言ってますからね。
変だけど美しいお話になっているから気づかないことが多いですね^^;;
こんにちは。
吉良上野介義央については記録によって印象がバラバラでよくわかっていないのですが、現代でいうパワハラみたいなことがあったとしても、儀式が終わってからやるべきですよね。
殿中でしかも勅使がやってくる直前にやってしまって、綱吉の面目丸つぶれで桂昌院のための賄賂も水の泡になるかもなので、将軍家へのテロなのかと思ったはずです。
家康だったら全軍率いて赤穂征伐やっていたかもですよ。
浅野内匠頭が家来たちの事やお家のことを考えて
耐え忍べる人ではなかったのは
間違いない事かなと思っていました。
続きが気になります!
吉良上野介は、地元では名君だと伝わってますよね。
実際はどうなのでしょう??
私的には、吉良が忠臣蔵のようなイジワル爺さんだったとしても、いきなり斬りつけるのはアウトでしょ、浅野さん!
…と思うのですが~^-^;
これでもし本当は良い人だったら、吉良は被害者の上に逆恨みで殺され、さらに後世では国民的イジワル爺さんキャラに…!
まさに悲劇の人ですね;;
バカ殿では困る人たちが、とても気になります。
次回を楽しみにしてますね(*^^*)