本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その5
- カテゴリ:勉強
- 2019/06/18 16:36:33
浅野内匠頭が「乱心」であったなら歴史は変わっていたか?
現代において精神鑑定で責任能力なしと判定が出た場合、大量殺人であっても不起訴処分や無罪になることがある。だから刑事事件の弁護士はかならず精神鑑定の請求をする。無罪が確定したあと、釈放された殺人者は弁護士が責任をもって医療加療されているのか、それとも大手を振って街を歩いているのか不明だが、ニュースになることは滅多にない。ちなみに、酒に飲んでのトラブルで事件が立件できなかった場合の加害者はその後自由に鮭を飲んでいるっていう事実はある。
浅野が乱心で斬りかかったなら無罪放免はありえたかといえば、それはあり得なかった。どんな事情があっても殿中で鯉口三寸で御身は切腹、御家は断絶だからだ。
「逆説の日本史14 近代爛熟編」 井沢元彦著によると。
”午後、綱吉は老中たちを集めて、浅野に対する裁決を相談した。綱吉の怒りはまだ収っていなかった。即日、切腹を申し渡す、というのが綱吉から出た意向であった。老中のうち稲葉丹後守は、浅野は乱心の態に見うけられるからといって、最終的な処分の猶予を願った。秋元但馬守も、土屋相模守も、ほぼ同意見であったといわれている。このような即決をはばかる(浅野に同情的な)老中たちの意見が多いのを知って、まだ怒っていた綱吉は、座を立って奥に入り、その後で、月番老中の土屋を呼んで、浅野の切腹を命じたのである。”
松島栄一氏が歴史学者として綿密な考証で赤穂事件を書いた「忠臣蔵」(岩波新書)ではこう描かれている。
綱吉が切腹を命じる前に、当時の老中(定員は5人)のうち稲葉丹後守、秋元但馬守、土屋相模守の3人が「乱心」ではないかと見ている。松島氏は「同情的」と書いているが忠臣蔵錯覚の浅井=善、吉良=悪を捨てて考えてみると。
”彼等は見たままを言っているのではないか。つまり「乱心に見えたから(堂上ではなく)乱心と言った」だけのことではないか。「同情的」という「考え方」の中には「これは一方的な刃傷ではなく喧嘩」であり「浅野は吉良にイジメられていた」、だから「可哀想だ」という「見方」がある。だがそれは「忠臣蔵錯覚」なのである。それを排除して考えれば、つまり「誰が見ても浅野はヘンだった」ということではないのか。”
しかし、乱心であろうとなかろうと殿中で刃傷に及べば死罪は動かない。綱吉が老中3人の意見を入れて「乱心」だったとしても、切腹は間違いなかっただろう。「服忌令」と「生類憐れみの令」を出していても結果は変わらなかった。それなら、なぜ「乱心」だからとかばうような言があったのか。
浅野長矩の母は鳥羽藩主内藤忠政の娘波知で、叔父に内藤忠勝がいる。
内藤忠勝は鳥羽藩三代藩主で、徳川家綱77日法要に際し、芝増上寺参詣口門の警備を命じられたときに、同じく警備を命じられていた永井尚長とトラブルになって刃傷に及び永井を殺してしまった。
忠勝は翌日切腹、御家断絶となったが、忠勝の刃傷は乱心ということになり、弟忠知はのちに許され御家存続が許された。
同じ刃傷でも、遺恨なら切腹で御家断絶だが、乱心なら連座は免れて御家存続の可能性が残っていたのだ。だから、乱心の態と「どうみてもヘンだった」と申し立てていたのだ。
つづく。
こんにちは^^
精神鑑定で無罪となったあとは病院に入院なのか、無罪放免なのか、まったくわからないですね。
入院したとしても未来永劫ではないでしょうし、完治って誰が判断して、神奈川県の大量殺人のようなことが怒ったとして誰が責任を取るのでしょうね。
なにが問題が起こって、酒のせいだって言う人が酒をやめたって聞いたことはないですね。
「乱心」だと本人に対する罪は同じで軽くならないけれど、「御家」には存続が許されたってことなんですよ。その当たりは先例にしたがってですね。
現代の精神鑑定の事情も、専門家じゃないので難しいですね。
そういえば、その後の加害者はどうなるのでしょう??
酒を飲んだ上のトラブルは、酒乱なのを自覚してるなら、飲まなきゃ良いのにって思ってしまうのですが…
こちらも罪に問われないのですかね~^-^;
忠臣蔵の時代から、「乱心」だと罪が軽くなるような風潮だった、ということでしょうか?
遺恨のほうが(事情にもよりますが)情状酌量の余地がありそうな気もしますけど。
昔は仇討とか許されてましたし。
そこらへんの事情も難しそうですね。
謎が解けるのを、次回にまた期待です(*^^*)
こんにちは。
続きから討ち入り編になりますよ。