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本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その8

織田信長、徳川家康や水戸光圀であれば、浅野内匠頭は切腹は許されず、間違いなく手討ちになっていた。綱吉の生母桂昌院の叙位のためという理由がなくても、朝廷からの使者を迎える大切な儀式で、失敗がないように念には念を入れて慣例を破ってまで2回目の浅野を選んだにもかかわらず、浅野は殿中で刃傷に及んでしまった。将軍家の面目丸つぶれで、武士ならみずから成敗するというのが当たり前だった。

だが、綱吉は服忌令を出して、血と肉を嫌う文化に社会に変えてしまった。家康が幕府を開いたあとも、大坂冬の陣、夏の陣で、また島原の乱で、殺しあいをやってきた武士達が、綱吉以降は幕末まで戦をまったくやっていないのだ。平和な時代で町民文化が全盛で、歌舞伎、人形浄瑠璃などなど演芸が一気に進歩している。

「逆説の日本史14近代爛熟編」 井沢元彦著によると。

”日本の土着の文化は狩猟を基本とする縄文文化である。「動物を殺す」文化であるから血に対する差別意識などまったくない。典型的な狩猟文化の宗教であるキリスト教では、最後の晩餐のワインとパンをキリストが「自分の血と肉だ」といっているぐらいなのである。
ところが、そこに、大陸および半島方面すなわち西から、まったく動物を殺さない農耕民の文化が入ってきた。これが弥生文化だ。弥生文化の方が生産性が高く縄文の民は東へ東へと追いやられた。もっとも少数の人々は「西」に残らざるを得なかった。そしてここでは「皮をはいだり」「肉を食べたり」するという狩猟文化としては当然の行為が、「血のケガレ」であり「死のケガレ」につながるものとして厳しく差別されるようになった。この弥生文化の頂点に立つのが天皇家であって、天皇家には農耕儀礼はあっても「血と肉」を扱う儀礼は一切ない。しかし、その天皇家も創成期には中大兄皇子(天智天皇)のように剣を取って戦わざるを得なかった。ところが世の中が平和になってくると、朝廷では「ケガレ」から一切離れようという意識が強くなった。もともと「忌」という発想は、公家文化、朝廷文化の産物である。そもそも中国から来たものだが、中国では親の死を悲しむ行為すなわち「孝行」の一環としてとらえられていたのに対し、日本では肉親といえども死のケガレに同化したものは「忌む(避ける)」という、神道的つまり弥生文化信仰的な側面が強調されるようになった。平安時代には御所の庭に鳥の死骸が落ちていただけで、大騒ぎして一日中「ハライ」「キヨメ」の儀式をやっていたほどである。しかし、このあまりにも「自分の手を汚したくない」人々は、ついに国家の軍事権、警察権も手放すようになった。そんなものに触れれば「ケガレ」るからだ。そこで武士という縄文文化の末裔ともいえる人々が国家の軍事権、警察権を握る形で権力を得て朝廷に対抗した。これが幕府(武士政権)である。
ところが、その武士の時代であるはずの江戸時代中頃には奇妙な現象が起こっている。もともと狩猟の民である武士は血を流すことをケガレと考えなかった。ところが江戸中期には罪人(これもケガレ)の首を斬る「お試し役」山田浅右衛門は身分は浪人で、つまり差別の対象なのである。武士は昔は「首を取るのが仕事」のはずだった。一体いつから公家のマネをするとうになったのか?”

この意識の大変革が綱吉の服忌令によって行われた。だから、浅野を斬ると「ケガレ」があるから綱吉は手討ちにはできなかった。といって殿中で刃傷を起こした浅野を許せず、浅野は切腹、御家は取りつぶしとして、「殺生」でみずからの手を汚さずに浅野の処分を行ったのだ。

お上の処置としては問題なく行われていて、御家存続を願う浅野家以外は納得するものだった。庶民が吉良が悪いからお上の処置がおかしいと言いだしたのは、現代のイメージで忠臣蔵を見ているがゆえの幻想なのだ。

とはいっても、大石らが吉良邸に討ち入ったのは事実で、彼らには彼らの理があって討ち入ったのだ。いったいそれはなんだったのだろうか。

つづく。

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2019/07/03 17:04
>ゆりかさん
こんにちは。
公家が朝臣って呼ばれるのは遊んで暮らせるから朝臣って説もあるくらいですからね。
綱吉については、既得権を持っていた譜代名門の大名家が権力を削られたこともあって、悪く言っている史料ばかりみたいですね。新井白石は優れた儒学者ですが、綱吉のことは全否定気味で、新井白石信者は綱吉は悪者にしていみたいです。
綱吉は側用人をおくなど信長レベルに劇的に政治を変えたみたいです。
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2019/07/02 22:04
こんばんは、kiriさん。

なるほど~!
縄文文化と弥生文化は、そういう違いもあったんですね。
さすが井沢元彦さんの本は面白い^^

庭に鳥の死骸が落ちてただけで、大騒ぎして一日中儀式って…公家の方は暇なのでしょうか(苦笑)
それが高じて、軍事・警察権まで手放すことになり、武士の台頭を許してしまうのだから、目も当てられませんね^^;

その武士も、平和な江戸時代になると、本来のお仕事を忘れてしまっているような。
最近の評価だと、犬公方としてダメ将軍扱いされていた綱吉が、戦国の荒れた気風を変えて、平和な国民性にした名君ではないか?と言われ始めてますね。

平和なのは良いことですが、徹底的に「ケガレ」を嫌った綱吉は、武士の棟梁としての評価はどうなのかな?とkiriさんの日記を読んで少し思ってしまいました。

とても興味深い内容です。続きも読ませて頂きますね(*^^*)




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